確かさという名の偶像(10)

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グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介シリーズ、第3章「確実性という偶像」を取り上げるのは今回が最後です。

確実性の追求という偶像

前回までの記事を通して、偶像礼拝の特徴について見てきました。これまでの議論を受けてボイドは次のように結論づけます:

ありていに言うと、その真摯な姿勢は否定しないものの、確実性を追求し、疑いを避けようとするような信仰理解は、イエスの時代の宗教指導者たちが捕らわれていたのと同じ宗教的偶像礼拝を反映していると結論づけざるを得ない。確実性を追求するクリスチャンたちが、愛と自己価値と神の前の安全を感じる―つまり自分の「救い」を確信する―ために必要とするのは、自分が正しいことがらを十分な確実性を持って信じているという自信を持つことなのである。このことは、彼らにとって「いのち」の源泉となっているのは、神ご自身と言うよりは、神について彼らが信じていることがらについての確信だということを意味しないだろうか?(p. 68)

ボイドは二つのまったく異なる信仰のあり方を提示します。一つは、(1)十字架につけられたイエス・キリストこそが神の真の自己啓示(つまり神が無条件に愛してくださるお方であるということ)であり、「いのち」の唯一の源であると信じる信仰のあり方、もう一つは、(2)私たちの信じているすべてのことがらが真理だという確信を持つことに「いのち」の源泉を求める信仰のあり方です。ボイドはこの二つは両立しないと言います。なぜなら、もしイエスの十字架のうちに神の愛が啓示されていると信じ、そこから「いのち」を得ているならば、その「いのち」は私たちが神に関して信じているその他のことがらが真理であるかどうかによって左右されることはないはずだからです。逆に、一群の教理が正しいことに確信を持つことが救いの条件であると考えているなら、その人にとって「いのち」の源泉は十字架のキリストではないということになります。

誤解を招かないために、ボイドは正しい教理を信じることの重要性を繰り返しますが、私たちの「いのち」の源は正しい教理にはないことを強調します。この区別をはっきりさせることは非常に大切であると思います。

クリスチャン信仰の「中心」

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さて、ここまでの議論で、「十字架に架けられたイエス・キリストに、神の真の姿が啓示されている」ということがボイドの信仰理解において中心的重要性を持っていることに気づかれたと思います。そこで次のような疑問が生じるかも知れません。「ボイドの提唱する信仰理解においても、この一つの点については、確実性を持って信じなければならないのではないか?結局彼の主張も、彼が批判している確実性追求型の信仰と同じではないか?

たしかに、十字架において啓示された神を「いのち」の源泉として持つためには、神が十字架においてご自身を啓示したことが真理であると信じなければなりません。そしてボイドは、私たちが信じなければならない唯一のことは「イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト」(1コリント2章2節)であるということを認めます。しかし、ボイドは3つの論点を挙げて、上の疑問に答えています。

まず第一に、十字架において啓示された神から「いのち」を得ることは、神が十字架において啓示されたという信仰内容について確信を持つことから「いのち」を得ることとは違うと言います。私たちが「いのち」を得るのは神との人格的関係からであって、神に関する信条からではありません

第二に、ボイドは十字架における神の自己啓示という中心的論点についても、絶対的な確信を持つ必要はないと言います。私たちに必要なのは、神との相互献身的な関係を築こうと行動を起こすために必要なレベルの確信を持つことだけです。

第三に、ボイドはこの中心的論点に関して、それが正しいと思い込もうとはしないと言います。むしろ、あることがらが正しいかどうかを判断するためにすべての理性的な人間がするように、ボイドはこの主張に賛成したり反対したりするあらゆる議論や証拠を吟味するというのです。(十字架上のイエス・キリストにおいて神の真の姿が啓示されているということをボイドがなぜ受け入れているかについては、本書の後の章で説明されます。)

このように、ボイドは「十字架につけられたイエス・キリスト」をクリスチャン信仰の中心に据えることを提唱しますが、そのような信仰のあり方は、これまで見てきたような確実性追求型の信仰とはまったくことなったものなのです。

ここまで、本書の1-3章を通して、「確実性追求型信仰」の問題点を見てきました。この最初の3章が、第1部「偽りの信仰」を構成しています。続く第2部「真の信仰」では、ボイドが提唱する、そして彼が聖書的な信仰と考えるタイプの信仰について議論が展開していきます。

(続く)