少し間が空いてしまいましたが、グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介シリーズを続けます。今回は第3章「確実性という偶像」の続きです。
「神学」や「聖書」という偶像
あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。(ヨハネ5章39-40節)
ユダヤ人の宗教指導者たちとの対話の中で、イエスは彼らが熱心に(旧約)聖書を研究し、それに精通していたにもかかわらず、聖書が指し示している、「いのち」の源であるイエスご自身のもとに来ようとしないことを指摘しました。ボイドはこの箇所から、聖書を知り、聖書に基づいた教えを信じていたとしても、それが彼らをイエスに導くことがなければ、彼らは聖書から「いのち」を得ることができないと言います。前回定義したように、偶像とは私たちが「いのち」を得ようとして神の代わりに用いようとするあらゆるものを指します。したがって、このユダヤ人指導者にとって聖書は偶像になっていたということができます。ボイドは言います:
このエピソードは、私たちが何かを信じる信じ方によっては、私たちが信じるその何かは偶像になってしまい、キリストから「いのち」を得ることの妨げとなることがある、ということを示している。そしてそれは、私たちの信じている内容が完全に正しいものであったとしても、そうなのである!そしてこのような事態は、私たちが「いのち」の唯一のまことの源であるお方との関係のゆえではなく、私たちが信じていることがらのゆえに、自分は神とうまくやっていると確信するときには、いつでも起こるものだ。もし自分の信条の正しさに対する確信によって、私たちが神とうまくやっていると感じているとしたら、自分の信条についての確信は、事実上私たちの神となっているのである。これによって私たちは「いのち」についての偽りの感覚を持ってしまうのだ。(p. 63)
ボイドはさらに、このような信仰的態度は、誤った神観に基づいていると言います。つまり、ユダヤ人宗教指導者が前提としている神は、熱心な聖書研究や正確な聖書知識を人間そのものよりも尊ばれる神だということです。このような神観は、十字架において啓示されたまことの神の姿よりも確実に劣ったものであると彼は言います。そして、あらゆる罪と偶像礼拝の根源には、このような誤った神観、信頼の置けない、「いのち」を与えることのない神のイメージがあるというのです。
ボイドはこのことを結婚を例にして説明します。二人の人間が結婚するとき、夫婦はお互いに相手がどのような人間であるかについて、さまざまなことがらを信じて、結婚の誓約を交わします。相手についてのそれらの信念が正確なものであるか、二人は絶対的な確信を持っているわけではありませんが、ある一定レベル以上の確信があるならば、残りの生涯を通して相手に対して献身するという決断をすることができるわけです。ボイドによると、結婚生活においては相手に関する知識の確実性を追求することよりも、不確実な見通しの中でも相手の人格に対して進んで献身することが重要なのです。そして、それはまさに私たちと神との関係についても言うことができます。神との関係において重要なのは私たちの神に関する信念の確実性よりはむしろ、私たちがそのような信念を通して信じている神という人格(ペルソナ)なのです。
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ここでボイドが述べている主張は大変重要なものであると思います。ボイドの議論の核心にあるのは、クリスチャンにとってもっとも重要なのは私たちが信じている内容の絶対的正確さやそれについての確信ではなく、キリストを通した神との人格的な関係である、ということです。ボイドは熱心に聖書を学ぶことや正しい神学的知識を持つことの重要性を決して否定しているわけではありませんが、それらは目的ではなく、あくまでも私たちがイエスを通して神と関係を持つための手段に過ぎないことを忘れてはならないと警告するのです。
教会史における最初期の異端にグノーシス主義と呼ばれるものがあります。「グノーシス」とはギリシア語で「知識」という意味です。グノーシス主義についてひとくちで説明することは大変難しいのですが、ここでの議論との関連で重要と思われる点だけを指摘すると、グノーシス主義とは神と自己に関するある特別な「知識(グノーシス)」を得ることによって救われる、という宗教・思想運動でした。
グノーシス的な救済は無知からの救いであって、罪からの救いではない。知識は救いの手段ではなく、救いそのものであった。(Everett Ferguson, Backgrounds of Early Christianity, 3d ed., p. 310)
実はこのようなグノーシス主義的な考え方は、形を変えて現代のキリスト教会の中にも見られるのではないかと思います。ある人々は教理的正確さにこだわるあまり、あたかもそれがクリスチャンの信仰生活にとって最も重要なゴールであるかのようにとらえ、人の永遠の救いは、いかに正しい神学を身につけるかによって決まると考えています。そうすると、ある特定の教理を信じるかどうかということが、救われるかどうかを左右するということになります(その「特定の教理」の内容は人によってさまざまに定義されますが)。このようなタイプの信仰者にとって、教理的な意見の相違は非常に重大な意味を持っており、この点において意見の異なる人々との交わりを拒んだり、極端な場合は彼らの救いを否定したりすることも少なくありません。
しかしこれは、人は神についての正しい神学的知識を得ることによって救われる、というグノーシス的な発想にほかならないと思われます。そしてこのような考え方はさまざまな問題を含んでいると思われます。
第一に、限界のある人間存在が、はたして神に関する完全な知識に到達することは可能なのかという疑問があります。二千年もの間、教会はさまざまな神学論争に明け暮れてきましたが、いまだに全キリスト教会が合意できるような「完全な神学」を持つには至っていません。それに、各人の神学もその信仰人生の歩みに伴い変化していきます。したがって、「完全な神学的正確さ」を追求することは非現実的ですし、ましてやそれを救いの基準にすることはできません。
第二に、神は人間を救われるかどうかを、その知識の量や正確さによって決定されるのか、ということははなはだ疑問です。もしそうだとすると、神学の博士号を持っている人間は、ちいさな子どもよりもより救いに近いことになりますが、必ずしもそうではないように思います。上の結婚のたとえで言うと、夫が妻の誕生日を一日間違えたからといって、それが離婚の理由になるでしょうか?聖書は神と人との関係を父親と子どもにもたとえていますが、子どもが父親のあらゆることについて正確な知識を持っていなければ愛されないということはありません。
ボイドが言うように、この問題は私たちが神をどのようなお方としてイメージしているかに関わってきます。私たちの信じている神は、及第点に達しなければ容赦なく落第させる厳格な教師のような神でしょうか?それとも、私たちの不完全さにかかわらず、子であるがゆえに愛し導いてくださる父親のような神でしょうか?
もちろん、どのような存在であれ、相手と意味のある人格的関係を持つことができるためには、相手についてある程度の知識を持っている必要があります。そして、交わりを深めていくにつれて、相手のことをもっと良く知りたいと思うようになるのは自然なことでしょう。ですから、神学が神との交わりの中に不要であるとか意味がないということではありません。しかし、私たちが神との人格的交わり以上に神学や聖書の知識を重視していくとき、それは私たちにとって偶像になっていくのです。
人は救いに関する特定の教理を信じることによって救われるのではありません。たとえば、「人は信仰によって義とされる」という聖書の教えは、「信仰義認の教理を信じることによって救われる」ということではありません。そうではなく、イエス・キリストと出会い、この方を主として信頼し、生きた人格的つながりを持っていく時に人は救われるのです。
(続く)
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