エペソ書とキリストの戦い(5)

その1 その2 その3 その4

エペソ書における霊的戦いについてのシリーズ、今回が最終回です。

10  最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。11  悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。12  わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。13  それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。14  すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、15  平和の福音の備えを足にはき、16  その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。17  また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。18  絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。19  また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。20  わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。
(エペソ6章10-20節)

この箇所でパウロはギリシア語の動詞の二人称複数命令形を用いて、「(あなたがたは)武具を取りなさい」と命じているのに、「武具(パノプリア)」という言葉は単数形で書かれています。前回4章1節の「召し」についても同様のことを見ましたが、この戦いは個々のクリスチャンがばらばらに戦う「個人戦」ではなく、教会全体が一致して戦うべき「団体戦」だと言えます。前回も見たように、パウロの手紙を個人主義的な視点からではなく、共同体的(教会的)な視点から読むことはたいへん重要です。しかも、エペソ書において「教会(エクレーシア)」と言うことばは個別の地域教会ではなく、キリストのからだとしての普遍的教会をさして使われています。霊的戦いはすべてのキリスト者が一致して行うべきものなのです。

神の武具のイメージは、旧約聖書や中間時代の文書にも見出すことができます。たとえばイザヤ書では神とそのメシヤが武具を身にまとう様子が描かれています。

主は義を胸当としてまとい、救のかぶとをその頭にいただき、報復の衣をまとって着物とし、熱心を外套として身を包まれた。(59章17節)

正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。(11章5節。メシヤについての説明)

つまり、パウロが(共同体としての)教会が身に着けるべきものとして語っている武具は、神ご自身またはキリスト(メシヤ)が身に着けるものとして旧約聖書に語られているものです。このことからも、霊的戦いが地上におけるキリストのからだとしての教会が行うものであるという、上で述べた主張が裏付けられます。パウロは共同体としての教会全体があたかもひとりの戦士であるかのようにイメージしていることが分かります。これは、キリストが十字架によって教会を「ひとりの新しい人」に造り上げた(2章15節)という内容ともつながります。

これらの武具の比喩の細部についてあまりうがった解釈をしてはなりません(たとえば救いのかぶとは頭脳つまり理性を守るものである、等々)。神の武具としての「胸当」はエペソ書では「正義」となっていますが、1テサロニケ5章8節では「信仰と愛」になっています。このことはパウロ自身、特定の武具の比喩とクリスチャンの霊的性質との間に厳密な一対一の対応関係を考えていたわけではないことを示しています。もし私たちが霊的武具の比喩をあまり字義通りに解釈するようになると、アニミズム的信仰に陥る危険があります。

個々の武具の比喩についての詳しい説明もここではしませんので、興味のある方は注解書等を参照していただきたいと思いますが、重要なのは、ここでパウロが語っている内容は、すべて本書の他の箇所でも語られている内容だということです。神の武具としてパウロが列挙している概念とそれに関連する語が本書のどのような箇所に出てくるかを見てみましょう。

・真理(真実):1章13節、4章21、24、25節、5章9節
・正義(義):4章24節、5章9節
・平和(平安):1章2節、2章14、15、17節、4章3節、6章23節
・福音:3章6節、6章19節
・信仰:1章15節、2章8節、3章12、17節、4章5、13節、6章23節
・救い(救う・救い主):2章5、8節、5章23節
・(神の)ことば:1章13節、5章26節、6章19節
・祈り:1章16節

つまり、これらの武具を身に着けて戦うとは、何か特殊なことをすることではなく、パウロがこれまで本書で語ってきたような、神に召された民としての教会の歩みを忠実に行っていくことにほかならないのです。そうしていく時、私たちは霊的な敵対勢力に勝利していくことができるのです。

まとめ

霊的戦いはエペソ書を貫く重要な主題の一つです。本書はおそらくエペソ周辺の諸教会で回覧されることを意図して書かれたもので、パウロの手紙の中でも普遍的な性格の強いものです。この手紙でパウロが展開している霊的戦いの教えも、特定の地域教会の特殊な実践について述べたものではなく、広くキリスト教会一般に適用すべきものであると思われます。

パウロにとって霊的戦いとは何よりも、神とキリストがご自分に敵対する霊的勢力と戦う宇宙規模の闘争であることが分かります。復活して神の右に挙げられたキリストは、天においてすべての敵対勢力よりも優位に立っておられます。これらの敵は世の終わりには滅ぼされる定めになっていますが、現在のところは戦いが継続しています。それは、地上においてキリストのからだとして建て上げられつつある教会を通してなされるのです。

6章でパウロが教える霊的戦いを個人主義的な視点から理解してはなりません。それは教会全体が共同体として戦う戦いであり、しかもそれは、1章で語られている、天におけるキリストの戦いの地上におけるカウンターパートなのです。

教会は天と地が出会う場です。地において教会が、歴史の中で展開する神の救いの計画の中で与えられている召しにふさわしく歩む(4章1節)とき、天と地がつながり、キリストのからだとして正しく機能することができます。そしてそのような教会を通して、神の知恵が敵対勢力に対して示されていきます(3章10節)。これこそが、教会のなすべき霊的戦いにほかなりません。

このシリーズのタイトルを「エペソ書とキリストの戦い」と付けたのには理由があります。霊的戦いはキリストご自身の戦いなのです。パウロがエペソ書で教えている霊的戦いとは、教会がその召しにふさわしく歩むことによって、キリストの戦いに参加することにほかならないのです。