エペソ書における霊的戦いについてのシリーズ、今回は、6章の「神の武具」の箇所についてさらに見ていきます。
10 最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。11 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。12 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。13 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。14 すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、15 平和の福音の備えを足にはき、16 その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。17 また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。18 絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。19 また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。20 わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。
(エペソ6章10-20節)
パウロは10節で「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。 」と言います。ここの表現はギリシア語の動詞の受動態(「強められなさい」)が使われており、動作主が神ご自身であることを暗示しています。キリスト者は自分の力で強くなるのではなく、神によって強めていただく必要があります。ここで彼はゼカリヤ書10章12節を念頭に置いているのかもしれません。
わたしは主にあって彼らに力を与える。彼らは御名において歩み続けると主は言われる。(新共同訳)
ゼカリヤ書のこの章は捕囚からの民の帰還を描いたものであり、パウロは世の終わりに主が集められた神の民として教会が強められる様子をイメージしていたのかもしれません。エペソ書では「主」はキリストを指しますが、「主にあって」という表現はパウロの手紙の重要な鍵概念である「キリストにあるin Christ」とのつながりも無視できません。つまり、クリスチャンは「キリストにある」という教会の枠組みの中でなければ、強められることはないのです。言い換えれば、教会につながらないで一匹狼で霊的戦いをすることはできないということです。
10節で「その偉大な力」と訳されているギリシア語の表現は1章19節でも出てきます。つまりこれはキリストにあって教会の内に働く神の力のことを言っているのです。さらに、12節に出てくる「支配(アルケー)」や「権威(エクスーシア)」は1章21節に出てきたものと同じ存在です。これらのことから、パウロが6章で論じている教会の戦いと、1章で語っていたキリストの戦いが非常に密接なつながりを持っていることが分かります。パウロは1章で、神の右の座に挙げられたキリストが天における霊的敵対勢力に対して優位に立たれたことを述べています。霊的戦いにおけるキリスト者の力は、主であるキリストがすべての霊的敵対勢力に対して持っておられる権威なのです。
1章でキリストが天において勝利しておられる相手と、6章で教会が戦うべき相手が同じであることはたいへん重要です。私たちは地上において、キリストの戦いを継続しているのです。それは、教会がキリストをかしらとする(1章22節)、キリストのからだであることから当然導かれることです。天における戦いと地における戦いは別々のものではないのです。
12節に出てくる様々な霊的敵対勢力の名前について詳しく述べることはしません。ここではパウロがあらゆる種類の悪しき霊的存在について包括的に語っていることが理解できれば十分です。これらの敵はノンクリスチャンを支配している(2章2節参照)だけでなく、クリスチャンに対しても攻撃を仕掛けてきます。それをパウロは「策略」(11節)といいます。敵の攻撃はすぐにそれと分かるものではなく、策略として巧妙に仕掛けられてくるものであることが分かります。クリスチャンがそれに惑わされていくと、教会が召しにしたがって歩むことが妨げられてしまいます。エペソ書の内容から考えると、「悪魔の策略」とは、知らず知らずのうちに教会に入り込んで堕落させ、その本来の召しから外れた歩みをさせようとするような、この世の価値観や文化、罪の誘惑といったものであると考えられます。「主権」や「力」はそのような策略を持ってこの世を支配しているだけでなく、教会をもその流れに巻き込もうとしているのです。教会はこのような策略を見抜き、それに立ち向かわなければなりません。
クリスチャンはこれらの敵の策略に対してどう戦うべきでしょうか?それは、4章1節にあるように、教会の召しにふさわしく歩むことであり、神の国の価値観(その究極の表現は十字架で表された自己犠牲的な愛です)に従って生きることです。それは具体的にはパウロが4章後半から述べてきたことですが、彼は終わりにあたってそのようなクリスチャンの戦いを、「武具」の比喩を用いて要約しているのです。
(続く)