小文字のキリスト教

これが当ブログ通算100回目の投稿になります。開設したのが昨年の11月16日でしたから、ほぼ1年かかったことになります。毎日のように更新されるブログに比べるとまことに遅々たるペースですが、ここまで続けることができて感謝しています。当初はここまで続くとは正直思っていませんでした。いつも読んでくださっている方々に心から感謝します。

ということで、今回は現在進行中のシリーズはお休みして、以前から考えていることをお分ちしたいと思います。

sand-768783_1920

何年も前のことになりますが、はじめて英語で使徒信条を読んだ時、日本語では「我は・・・聖なる公同の教会・・・を信ず。」と訳されている部分が英語では”I believe in . . . the holy catholic Church”となっているのを知って、とても興味深く思いました。これはもちろん、いわゆるローマ・カトリック教会を指しているわけではありません。英語のcatholicカトリコスというギリシア語に由来する言葉で、「普遍的」という意味があります。ですから、プロテスタントに限らずすべての教派のクリスチャンが使徒信条を唱える時には、キリストのからだとしての普遍的な(「公同の」)教会に属しているということを告白しているのです。これに対してローマ・カトリック教会はRoman Catholic Churchと言いますが、ここでのCatholicは大文字で書かれ、ローマ教皇を最高指導者とする特定の教派を言います。

同じことはorthodoxということばについても当てはまります。これは本来は「正しい教え・賛美を持つ」を意味するギリシア語オルトドクソスから来ており、使徒たちに遡る正統的な信仰を意味します。しかし、大文字でOrthodox Churchというといわゆる東方正教会という特定の教派を指すことになります。

キリスト者としての自分の位置づけはといえば、敢えていうなら「福音派Evangelical Christianity」に属する者です。この言葉は一般的な用法で言えば、聖書の権威とイエス・キリストへの信仰による個人的回心を重んじる保守的プロテスタントの諸教会を指しますが、語源的には福音(エウアンゲリオン)に根ざしている教会、という意味です。

このような大文字(Catholic, Orthodox, Evangelical)小文字(catholic, orthodox, evangelical)の表現には興味深い違いが表れていると思います。それぞれ、元来は全キリスト教会に当てはまるべき重要な特質(普遍、正統、福音的)を表した形容詞でありながら、それを大文字化して特定の教派の名称にしてしまうと、あたかもその特質がその教派の専売特許であるかのような錯覚を与えてしまう危険性があるのではないかと思います。そしてそのような「大文字化」の背後に、自分たちのグループのみが神の真理を代表しているという排他的独善性が見え隠れするように感じているのは私だけでしょうか。

letters-656514_1920

このことに関して興味深い記述がパウロのコリント人への手紙の中に見いだせます:

さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにして、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。 わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っていることである。(1コリント1章10-12節)

コリント教会の中心的な問題は、教会に分派があったことです。それぞれのグループは特定の指導者を担ぎ上げて、「パウロ派」や「アポロ派」「ケパ(ペテロ)派」などに分かれて争っていました。ところがここで興味深いのは、そのような分派の中に「キリスト派」とでもいうべきグループがあったということです。これは何を意味しているのでしょうか?クリスチャンが「わたしはキリストにつく」と言うことのどこが問題なのでしょうか?

おそらく、ここで言われているのは、「自分たちだけがキリストに忠実なグループである」と主張し、他の人々を見下しているような分派ではないかと思われます。「私たちはキリストにつく」と言えば、他のクリスチャンたちはキリストについていない、ということを暗に意味します。「キリストへの忠誠」という、クリスチャンにとって最も大切な特質も、それが排他性を帯びてくるときに、教会に分裂をもたらし、神の国の働きを妨げる結果になってしまうということです。同様に、現代の私たちも自分たちだけが「普遍的」「正統的」「福音的」な教会であるという自負を持つとき、コリントの「キリスト派」と同じ過ちを犯していることにならないでしょうか。

この大文字と小文字の違いは、自分にとってキリスト者としてのアイデンティティを考える上でとても重要です。私はいわゆるカトリック(大文字のCatholic)信徒ではありませんが、公同の(小文字のcatholic)教会に属するクリスチャンとして、同じ信仰を共有する他教派のキリスト者と交わり、彼らから学んでいきたいと願っています。同様に、私は大文字のOrthodox Church(正教会)に所属してはいませんが、初代教会につながる正統的な(orthodox)信仰を保持する者でありたいと願っています。さらに、私は広い意味での福音派Evangelicalに属する者ですが、いわゆる「福音派」だけが福音に根ざした(evangelical)キリスト教であるとは思っていません。福音派であろうとなかろうと、イエス・キリストの良い知らせ(福音、エウアンゲリオン)を受け入れ、これを宣べ伝える人々とは神の家族であると思っています。

もちろんこれは、キリスト者が特定の教派に属することを否定するものではありませんし、私も歴史の中で培われてきたそれぞれの教派的伝統の意義は十分に認めています。しかし、ここで述べてきたようなキリスト教の特質は、本来全教会の共有財産であるべきものだということを意識するだけで、教派的背景の異なる兄弟姉妹とも偏見なく交流を持つことができるようになるのではないかと思います。ですから、evangelicalなカトリック信徒やcatholicな正教徒がいてもいいし、orthodoxなプロテスタントのクリスチャンも当然あってしかるべきだと思います。

letters-656536_1920

「神学する」というと、自分の所属する特定の教派や伝統の独自性に強調点が置かれることが多いですが、時には一歩下がって、自分の信仰をより大きな、よりジェネリックな「キリスト教」の枠組みの中で見つめ直してみることも必要であると思います。N・T・ライトは端的にクリスチャンであることについて書きましたし(Simply Christian、邦訳は『クリスチャンであるとは』)、C・S・ルイスは「ただのキリスト教」(Mere Christianity、邦訳は『キリスト教の精髄』)について語りました。同じような問題意識の下、私はcatholic, orthodox, evangelicalといった「小文字のキリスト教 small-letter Christianity」という信仰のあり方を追い求めていきたいと思います。

確かさという名の偶像(13)

(シリーズ過去記事 第1部          10 第2部 11 12

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第6章「法的取引から愛の結びつきへ」を取り上げます。

この章でボイドはまず、「信仰faith」と「信条belief」を区別します。「信条」とはあることがらが正しいという精神的確信です。これに対して、聖書的な「信仰」とは、他の人格と結ばれた関係において相手を信頼すること、また自分が信頼に価する存在になることを意味しています。たとえば、私たちは「1たす1は2である」という数学的真理を信条の意味で「信じる」と言いますが、私たちはその命題と人格的信頼関係にあるわけではありません。反対に、「私は妻(夫)を信じる」と言う時、私たちはただ単に配偶者の存在を認識しているだけではなく、相手との人格的信頼関係があるということを述べているのです。聖書的な「信仰」とは人格的な概念です。

次にボイドは、contractとcovenantという二つの概念を比較します。Contractとcovenantはどちらも「契約」と訳されるように、一見同じようなものととらえられがちですが、この両者の区別をはっきりとつけることが、本書におけるボイドの議論を理解する上で非常に大切です。この二つの言葉を訳し分けるのはとても難しいのですが、この記事ではcontractを「法律的契約」、covenantを「人格的契約」と訳しておきます

ボイドによると、法律的契約は人々の間で結ばれ、法的拘束力をもって相手が合意された契約内容を守ることを保証するものです。これに対して、人格的契約は両者の信頼にもとづいて結ばれるもので、当事者の人格的コミットメントを含むものです。たとえば、自動車販売業者と車の売買に関して契約を結ぶとき、それは「法律的契約contract」です。そこには相手への人格的コミットメントはありません。しかし、結婚の誓約は「人格的契約covenant」であり、互いの信頼関係に基づいて相手への愛と献身を表明するものです。人は相手への信頼に基づいて「人格的契約」を結びますが、逆に「法律的契約」が結ばれるのは、相手を信頼していないというまさにその理由に基づいています。また、「人格的契約」は基本的に相手に対して献身するという他者中心の考え方であるのに対して、「法律的契約」は信頼のおけない相手から自分の利益を守るという自己中心的な概念です。このように、「法律的契約」と「人格的契約」は表面的には同じように見えても、その内実は水と油ほどにも違うものなのです。

さて、聖書における神と人間に結ばれる関係は、この「人格的契約covenant」の方です。聖書には、神が人間と結ばれたさまざまな契約covenantsが記されています。ノア契約、アブラハム契約、モーセ契約、ダビデ契約、そしてイエス・キリストを通して結ばれた「新しい契約」です。これらはどれも、神と人間の間の人格的信頼関係に基づいたものです。たしかに聖書には法律的概念も見られます(たとえば神を裁判官として描く箇所など)が、それらはより大きな人格的契約関係の枠組みの中で見ていく必要があるのです。

ところがボイドによると、多くの人々は聖書を「法律的な概念」の視点から読んでいるために、誤った信仰理解に導かれてしまっているのです。西洋のキリスト教、特にプロテスタント教会は伝統的に法律的概念で信仰を理解する傾向があると彼は言います。このような「法律的契約」と「人格的契約」の混乱に「信仰」と「信条」の混乱が加わると、さまざまな問題が起こってきます。それは今日の多くのクリスチャンが発する次のような質問に表されていると言います。

・「私が救われるためには、何を信じなければならないか?」
・「人は救いを失う可能性があるか?そうだとしたら、何をしたらそうなるのか?」
・「どのような行為が特定の罪(たとえば姦淫)にあたるのか?どこまでなら許されるのか?」

このような質問は、「法律的契約」の概念(そして多くの場合、「信仰」ではなく「信条」の理解)に基づいています。そこでは神への信仰は、人格的信頼関係としてではなく、神が定めた法律的契約条項を人間がいかに遺漏なく守ることができるかということで測られます。そうすると、人はいかに神を信頼し、また神に対して誠実に生きるかということよりも、いかに罪を犯さないで裁きを免れるように生きるかということを重視するようになるのです。

ボイドは、聖書の契約を「法律的契約」の観点から誤解することによって、私たちの福音理解そのものが歪められてしまうと警告します。このような観点からは、神は裁判官として、聖書は法律書として理解されることになります。そして人々の永遠の運命は、法律書としての聖書を駆使して正しい神学を身につけるか、あるいは少なくとも正しい神学を教える教師(牧師)の意見に従うことによって、神からの無罪判決をいかに勝ち取ることができるかにかかっている、ということになります。けれどもボイドはそのようなものは「福音(良い知らせ)」ではないと言います。

神は私たちと法律的契約を結ぶことには関心はない。神は正直さと信頼と誠実を特徴とする、深く個人的な、人格的契約の関係を私たちと結ぼうと望んでおられるのである。同様に、救いの主要な意味は、死んだ時に牢獄送りになるのを避けるために無罪判決を受ける、ということではない。第3章で述べたように、それは三位一体の神の持つ豊かないのちと至福の愛の関係に参加することであり、この人生においてそれを体験することである。(p. 120)

*     *     *

本章でボイドが論じている「人格的契約covenant」と「法律的契約contract」の区別はたいへん重要なものだと思います。彼が指摘する通り、私たちは往々にして神との関係を法律的な概念でとらえてしまうことがありますが、そのような信仰理解は私たちの生き方に大きな影響を及ぼしてきます。もちろん、神を愛するがゆえにその戒めを守ることは大切なことです。しかし、法律的な信仰理解では、人は契約条項を事細かに守りながら、神に対する人格的コミットメントなしに生きるということもありうるのです。このような形式主義、律法主義こそ、聖書が繰り返し批判しているものです。

このような「法律的契約」概念は、イエスのたとえの中に出てくる、放蕩息子の兄のことばに良く表れています:

兄は父にむかって言った、「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。」(ルカ15章29節)

兄は父の戒めを守るという点においては非の打ち所がありませんでした。しかし、彼の人生は父親に対する愛と信頼によってではなく、父との法律的な契約条項を守ることによって祝福を受けようとするものでした。だから彼は、父がいつも自分とともにいて、父のものは全部自分のものであったにもかかわらず(31節)、その祝福を楽しむことができませんでした。それどころか、父親が相続財産を使い果たして帰ってきた弟を無条件の愛をもって受け入れたことが、彼にはゆるせなかったのです。彼にとっては、まさにそれは「契約違反」の行為でした。

しかし、そんな兄に父親は答えます。「このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」(32節)。父と息子たちとの愛の関係は戒めを守るかどうかと言う法律的契約関係によって規定されているわけではありません。弟は父に受け入れられるために何も良いことをしたわけではありません。自分が息子と呼ばれる資格さえないと思っていました(21節)。しかし、彼はそれでも父を信頼して戻ってきました。そして父はそんな息子を愛をもって受け入れたのです。それによって、父と弟の間の人格的関係は回復しました。そのことは「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」という父の言葉に表されています。父親が喜び祝おうというのは当然でした。

Rembrandt_-_The_Return_of_the_Prodigal_Son_-_WGA19133

レンブラント「放蕩息子の帰還」

このように、聖書における神と人間のあるべき関係は人格的なものであることが分かります。聖書的信仰とは、正しい神学を持っているかどうかということや、罪を犯さないで生きることによって測られるわけではありません。もちろん、正しい神学を持つことや罪を犯さないことは重要ですが、そのように生きていても正しい信仰を持っていないということはありえるのです。そうではなく、信仰とは神に対する愛と信頼に基づく人格的コミットメントということができるでしょう。

放蕩息子のたとえでは、人間社会における親子関係が人格的契約関係の象徴として用いられていますが、次回はもう一つの重要な象徴について見ていきたいと思います。

(続く)

 

 

 

確かさという名の偶像(12)

(シリーズ過去記事          10 11

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、前回から第2部「真の信仰」に入りました。今回は第5章「空に向かって叫ぶ」を取り上げます。

前回見た第4章では、旧約聖書に見られるイスラエルの信仰は、神に対して正直に向き合い、時には神と格闘することも辞さない信仰であるということを見ました。それでは、新約聖書においてはどうでしょうか?ある人々は、「新約聖書では旧約聖書よりも完全な啓示が与えられているので、キリスト者にとっての信仰の概念は旧約時代の人々とは異なる」と考えるかもしれません。しかしボイドは、新約聖書においてはイエス・キリストという形で神が究極的な自己啓示を行われたので、確かに信仰の内容は旧約時代とは異なっているけれども、「信仰を持つとはどういう意味か」ということに関しては、旧約時代といささかも変わっていないと主張します。この章でボイドは新約聖書における信仰、それもイエス・キリストご自身の信仰について見ていきます。

「疑いを排除しない信仰」「神と格闘する信仰」・・・このような概念は、イエスその人にはまったく当てはまらないように思われるかもしれません。結局のところ、イエスこそ「 信仰の導き手であり、またその完成者」(ヘブル12章2節)であり、完全な信仰の模範を示してくださった方ではないのでしょうか?しかし、ボイドはそのような考え方は、信仰と疑いを相反するものととらえる「確実性追求型信仰」の発想から出たものであるといいます。もし疑いや葛藤を持つことが信仰を持つことと矛盾するのであるなら、イエスが父なる神と格闘されることがあるなら、それは彼の信仰が揺らいだことを意味し、罪ということさえできるかもしれません。それはイエスが罪のない生涯を送られたという、正統的キリスト教の立場ではありえないことです。しかし、前回見たような「イスラエル的信仰」が真正な聖書的信仰であるとすると、イエスがそのような形の信仰を示されたとしてもまったく不思議はないのです。ボイドは言います:

たしかに、イエスは私たちと同様、本物の誘惑を受けられたものの、罪と葛藤されたことはなかった(ヘブル4章15節)。しかしそれはイエスは決して葛藤されなかったということではない。なぜなら、すべての葛藤が罪深いというわけではないからだ。私たちの葛藤の多くは、ただ単に私たちが人間であることの結果に過ぎないのである。したがって、たとえば完全な人間としてイエスは、私たち他の人間と同じように「苦しみによって従順を学」ばれた(ヘブル5章8節)。それだけでなく、これから見るように、イエスは信仰に関することについてさえ葛藤された。それはまさに、私の意見では、イエスが持たれたような完全な信仰とは葛藤と無縁な信仰ではない、ということを示している。それはむしろ、すすんで率直に葛藤しようとする信仰なのである。(p. 93)

ボイドはこのようなイエスの格闘を伝えている箇所として、ゲツセマネの園とゴルゴタの丘におけるできごとを取り上げます。十字架を目前としたイエスはゲツセマネの園で父なる神に祈られました。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(マタイ26章39節)。ここでイエスは、十字架の苦しみ(それは単なる肉体的な苦痛だけでなく、人類の罪をその身に引き受け、父なる神から断絶されるという壮絶な霊的苦痛も意味しました)をもしできることなら避けたいという願いを父に申し上げたのです。

Benczúr_Christ_on_the_Mount_of_Olives_1919

ジュラ・ベンツール「オリーブ山上のキリスト」

しかし、十字架以外の道はありませんでした。イエスはその後に「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(同)と祈られ、父のみこころに従う道を選ばれました。しかし、その前にイエスが十字架を避ける道を求められたという事実は、イエスの従順は彼が信仰の葛藤を覚えられたことと矛盾するものではないことを示しています。ここからボイドは次のように述べます:

あなたの葛藤が疑いや混乱、神の御心を受け入れる困難さ、あるいは他のどのようなことがらについてのものであれ、あなたが葛藤しているということは信仰がないということを意味するわけではない。それどころか、あなたの信仰の強さは、あなたが正直に葛藤を受け入れようとする度合いに比例するのである。(p. 93)

そして、イエスの最もはげしい葛藤はゴルゴタの丘で起こりました。彼は十字架の上で 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27章46節)と叫ばれたのです。十字架の死は永遠の昔から定められていたにもかかわらず、ここでイエスは「なぜ?」と父に問いかけているのです。

Peter_Paul_Rubens_-_The_Crucified_Christ_-_WGA20190

ルーベンス「十字架のキリスト」

 「確実性追求型」の信仰からすると、この決定的な瞬間にイエスは疑いを持ったので罪を犯したということになるか(それはイエスには罪がなかったという聖書の証言と矛盾します)、あるいはこのことばは彼の本心からの叫びではなかったということになり(この場合はイエスの苦しみや神からの断絶の純粋性が疑われます)、どちらにしても問題があります。けれども、聖書的な信仰が、神と格闘することを恐れない真正な信仰であるならば、イエスが十字架上で示された信仰は、まさに完璧な「イスラエル的信仰」であったということができるのです

*     *     *

この章ではボイド自身の人生における信仰の一大転機についても語られています。キリストに対する信仰を持ってまもなく、習慣的な罪からどうしても解放されることができず、絶望のどん底にまで追い詰められたボイドは、ある夜ついに感情を爆発させ、ありったけの怒りと悲しみ、絶望を神にぶつけます。原書に記述されたその時の叫びは、冒涜的とも言えるほど激しい内容ですが、少なくともそれは正直でリアルな心からの叫びでした。ボイドは、彼が神に対して正直になった時にはじめて、神は彼に対してリアルになってくださったと言います。その直後に開かれた聖書の箇所(ローマ8章1節「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」)を通して、彼の信仰は一変することになるのです。彼は言います:

真正さは聖書的な信仰の基礎である。なぜなら真の関係は、それに関わる当事者がリアルである度合いに応じてリアルになるからだ。そして私たちと神との関係がリアルなものとならないうちは、それは決して人を変革するものにはならない。それはただ宗教的な見せかけを生む、まがいものの関係にとどまるのである。私たちの内側にある醜さは、そのような関係によっては決してつくり変えられることはない。それはただ隠されるだけである。(p. 108)

真の聖書的信仰は、ありのままの自分を神の前に差し出す率直な信仰です。そして、新約聖書に描かれているイエス・キリストは、その信仰の完璧なモデルを提供しているのです。

(続く)

確かさという名の偶像(11)

(シリーズ過去記事          10

benefit-of-the-doubt

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回から第2部「真の信仰」を概観します。前回までの記事では、第1部「偽りの信仰」の内容をかなり細かく紹介してきました。これからは少しスピードアップして、基本的に1回で1章の内容をカバーするようにしたいと思います。

前回までの記事では、今日のキリスト教会で広く見られる「確実性追求型の信仰」について、その問題点を考察してきました。第2部でボイドは、確実性を追求し、疑いを排除しようとする信仰のあり方は聖書的なものではないことを論じ、聖書的な信仰のあり方はどのようなものかを探っていきます。今回は第4章「神との格闘」です。

ボイドによると、聖書的な信仰とは真正さauthenticityに基づくものです。「確実性追求型信仰」は疑いを持つことを禁じ、疑いを抑圧しようとします。けれども、聖書的な信仰は、疑いや不平不満も含めて、自らと神に対して正直になろうとする態度に土台を置くものなのです。

ボイドはこのような信仰のあらわれを、創世記32章22-32節に記されているヤコブの物語に見いだします。彼はある人物(物語の中でそれは神ご自身であることが明らかにされます)と夜通し格闘し、その結果その名をヤコブからイスラエルに変えるように命じられます。

024.Jacob_Wrestles_with_the_Angel

天使と格闘するヤコブ(ギュスターヴ・ドレ)

この奇妙なナラティヴでヤコブは神との格闘の後、「イスラエル」という名前を授かります。「イスラエル」の語源については諸説ありますが、少なくとも創世記の文脈では、彼がこの名前を与えられたのは「神と人とに、力を争って勝ったから」だと説明されます(28節)。そしてヤコブはこの出来事の後、彼は「顔と顔を合わせて神を見た」と言います(30節)。

ボイドはこの記事について、ヤコブが神とこのような親密な関係を持つことができたのは、彼が祝福を受けるために神と格闘することも厭わなかった大胆さのゆえであったと言います。それだけではありません。この「イスラエル的な信仰」の姿勢は、彼の子孫である神の民「イスラエル人」の信仰に受け継がれていく聖書的な信仰であると言うのです。つまり、聖書に見られる「イスラエル的信仰」とは、神と格闘する用意のある信仰なのです。

ボイドはこのような「イスラエル的信仰」はたとえばヨブの信仰に見出すことができると言います。ヨブはヤコブの子孫ですらありませんが、「イスラエル的信仰」のモデルを提供していると言えます。神の許しの中でサタンによってもたらされた苦難に対し、ヨブは初めのうちは模範的な敬虔を持って耐えていますが、苦難がいや増すにつれて、自分がいわれのない苦しみを受けていると主張し、神に対して論争を挑むようになります:

あなたがたの知っている事は、わたしも知っている。
わたしはあなたがたに劣らない。
しかしわたしは全能者に物を言おう、
わたしは神と論ずることを望む
(ヨブ13章2-3節)

ヨブ記の結論部分では主なる神ご自身が登場し、ヨブやその友人たち(彼らは因果応報的神学によってヨブの苦しみを説明しようとします)を沈黙させます。しかし、興味深いのはその結末です。神はヨブの信仰を賞賛されたのです!

主はこれらの言葉をヨブに語られて後、テマンびとエリパズに言われた、
「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。」(ヨブ42章7節)

あれほど神に対して激しい言葉を投げかけたヨブがなぜ「正しい」とされたのでしょうか?これはヨブの「神学」が正しかったからではありません。彼自身、自分の無知を認め、悔い改めているのです(42章1-6節)。

ボイドは、神がヨブを賞賛されたのはその率直さのゆえであると言います。つまり、ヨブの「正しさ」とはその「率直さ」だったのです。ヨブの友人たちは自分たちの神学(「悪は罪の結果である」)にヨブの状況をあてはめようと躍起になっていました(「ヨブが苦しんでいるのは、彼が罪を犯したからだ」)。彼らは自分たちの神学が正しいことを証明することに、自分の安心を見出そうとしていました。これは「確実性追求型の信仰」であるとボイドは言います。これに対してヨブは正しい神学を持つことによってでもなく、敬虔な言葉を語ることによってでもなく、疑いを排除することによってでもなく、ただ神に対して率直に語ることによって、結果的に神に喜ばれる信仰を示したのです。

*     *     *

旧約聖書のイスラエルに見られた模範的信仰は、このような神に対する正直な態度、時には神に正面から怒りや不満をぶつけるほどの率直な態度によって特徴づけられています。実はこのような「イスラエル的信仰」は聖書時代よりもはるか後の時代までも受け継がれていきました。

ナチスによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の体験にもとづいて『夜』等の書物をあらわし、ノーベル平和賞を受賞したユダヤ人作家エリ・ウィーゼルは、あるインタビューで自分の信仰について次のように語っています。

私の信仰は傷ついた信仰です。けれども信仰がないわけではありません。私の人生は信仰なしの人生ではありません。私は神から離れたわけではありませんが、神と言い争い、議論し、問いかけ続けています。それは傷ついた信仰なのです。

ElieWiesel

エリ・ウィーゼル

ホロコーストを歌ったウィーゼルの詩「アニ・マアミン(われ信ず)」の中には次のような一節があります。

沈黙の神よ、語りたまえ。
残酷の神よ、微笑みたまえ。
ことばの神よ、答えたまえ。
義なる神よ、不義なる神よ、
ことばを裁き、行いを裁きたまえ。
犯罪を裁き、その手先を裁きたまえ。
臨在の神よ、不在の神よ、
あなたは万物のうちにおられる、
悪の中にさえも。
あなたは万物のうちにおられる、
何よりも、人の中に。
臨在の神よ、不在の神よ。
あなたはどこにおられるのか
この夜に?

ある意味ショッキングな内容ですが、これは想像を絶する悪を体験した信仰者のことばであることを理解する必要があります。何百万人ものユダヤ人たちが殺されていく現実の中で、沈黙を守られる神に対し、ウィーゼルは懇願し、問いかけ、また怒りや疑いをぶつけ、糾弾します。けれどもその表現がどれほど激烈なものであろうと、彼が神に向かって叫び続けるそのこと自体は、彼がまだ神を信じていることを示しているのです。この詩は最後はメシアを待ち望む祈りでしめくくられます。これはいわゆる「敬虔な信仰」ではないかもしれませんが、すくなくとも「真実な信仰」ということができるかもしれません。

神の喜ばれる聖書的信仰、「イスラエル的信仰」は、自らの疑いや問いかけ、神に対する不平などを「神学」や「敬虔」によって説明し去ったり覆い隠そうとするものではなく、それらすべてをそのまま神の前に注ぎ出し、ありのままの姿で神の前に出て行く信仰です。その時に初めて私たちは、「顔と顔を合わせて神を見る」ことができるのだと思います。

(続く)

「『いいね』文化」考

フェイスブック断食

ここしばらく、わが家では「ジャンクメディア断食」と称するものを行っています。詳しくは妻のブログに書いてありますが、特にわが家の子どもたちによるメディア使用を(本人たちも同意の上)制限しようとする試みです。親もそれに合わせて、寝室にスマートフォンを持ち込まないなどの試みをしています。今のところ家族全員が良い影響を受けていると感じています。

それに伴い、私も個人的に、フェイスブックの使用をしばらく休止することにしました。いわば「フェイスブック断食」です。フェイスブックはここ数年使っていますが、このようなソーシャルメディアによって、自分の心がどのような影響を受けているのかを、一度立ち止まって考えてみようと思ったのです。(私の場合は仕事でもフェイスブックを使っていますので、必要最小限の使用は続けますが、個人としての使用はやめました。)

フェイスブックを始めてまもなく、自分の投稿がどのような反応を引き起こすかということを自分が強く意識していることに気づきました。投稿にたくさんの「いいね」やコメントがつくと喜び、あまり反応がなかったり否定的なコメントがあったりすると落ち込むなどといったことです。これは誰しも感じる自然な反応かもしれませんが、自分の投稿に人々がどう反応するかが絶えず気になり、そのためにフェイスブックをチェックする頻度が増えていきました。

それだけではありません。自分が投稿する内容だけでなく、自分がどのような投稿やページに「いいね」を押しているか(あるいはいないか)、誰に誕生祝いのメッセージを送って誰に送っていないか、と言ったネット上の「行動」が他の人々にどのように受け取られるのか、そのようなことも常に意識するようになり、それが大きな精神的ストレスを生むようになりました。

もっとも恐ろしいと思ったのは、自分の発信する情報の内容が、そのような「他人の目」によって変わってきたことです。たとえば、長く堅苦しい内容の投稿は「いいね」がつきにくい(そのような種類の文章にはブログの方が合っていると感じたのが、このブログを始めた動機の一つでもあります)、テキストだけの投稿よりも写真や動画をつけた方が「いいね」がつきやすい、などなど、経験的にいろいろな「法則」が分かってきますと、それにしたがって多くの人に「評価されやすい内容」の投稿をするようになっている自分に気づきました。つまり、ソーシャルメディアに露出している「私」は本当の私ではなく、他人に見られることを想定して「作られた私」なのです。ここに来て、私はソーシャルメディアとの関わり方をもう一度考えなおさなければならないと感じました。

「いいね」文化

フェイスブックのようなソーシャルメディアには、普通の環境ではなかなか交流できない人々(たとえば遠隔地に住んでいる人など)と手軽に繋がることができるなど、多くの利点があります。私自身、その恩恵を受けてきました。しかし、その反面、自分のオンライン上での言動が他人からどのように受け取られるかということを過剰に意識するようになり、それは精神的にかなり大きなストレスになってきたのも事実です。

これは実はソーシャルメディアに固有の問題ではなく、実社会における問題がインターネットの仮想現実世界でさらに強化されたものだと言えます。特に私たち日本人は常に「他人の目」を気にしながら生きています。自分の容姿や学校の成績、仕事の業績、等々、「人からどう評価されるか」が、私たち自身の価値を決定するものであるかのように考えられています。フェイスブックでは、そのような「他者からの評価」が「いいね」やコメントの数、「友達」の数などで目に見える形で数値化されていきますが、実生活においても私たちは常に他人からの目に見えない「いいね」を求めて生きているのです。このような社会のあり方を「『いいね』文化」と呼ぶことができるかもしれません。

information-427515_1280

「いいね」文化においては、自分の価値やアイデンティティは他人の評価によって大きく影響されます。したがって、私たちにとって、他人から良い評価を得ることが人生の至上目標となり、そのために全ての精力を注ぎこむことになります。言い換えれば、私たちは自分の価値や安心感を「他人からの高評価」に見出そうとしていることになります。これはまさに偶像にほかなりません偶像礼拝とは、私たちの「いのち」(無条件で愛され受け入れられていること、自己価値、安心感)を得ようとして神以外の存在を求めていくことだからです。

そして、このような試みは多くの場合破壊的な影響をもたらします。ほとんどの人はコンスタントに他人から良い評価を受けることなどできません。したがって、それはしばしばセルフイメージの低下につながります。私たちはこの世の「いいね」文化の悪影響から身を守るすべを身に着けていく必要があると思います。

しかし、人のアイデンティティが神ご自身に根ざしているなら、その人は揺るがされることがありません。フェイスブックで何百人の「友達」がいようとも、本当の親友に恵まれているとは限りません。けれども、キリストは私たちの真の「友」となってくださいます(ヨハネ15章13-15節)。キリストにあって神ご自身が私たちを受け入れ、愛し、喜んでくださっていることを実感するとき、私たちはこの世の「いいね」文化によって押しつけられた偽りのセルフイメージから解放されることができます。誰が何と言おうと、神ご自身がこの私に「いいね!」とおっしゃってくださっているのです。もちろん、これはすでに多くの人が指摘していることで、何も目新しい主張ではありません(たとえばマックス・ルケードは『たいせつなきみ』という絵本の中で、子どもにも分かりやすくこのことを述べています)。しかし、「いいね」文化の蔓延する社会においては、このことを繰り返し自分に思い起こさせる必要があると思っています。

神よ、わたしをお守りください。
わたしはあなたに寄り頼みます。
わたしは主に言う、「あなたはわたしの主、
あなたのほかにわたしの幸はない」と。
地にある聖徒は、
すべてわたしの喜ぶすぐれた人々である。
おおよそ、ほかの神を選ぶ者は悲しみを増す。
わたしは彼らのささげる血の灌祭を注がず、
その名を口にとなえることをしない。
主はわたしの嗣業、またわたしの杯にうくべきもの。
あなたはわたしの分け前を守られる。
測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。
まことにわたしは良い嗣業を得た。
わたしにさとしをさずけられる主をほめまつる。
夜はまた、わたしの心がわたしを教える。
わたしは常に主をわたしの前に置く。
主がわたしの右にいますゆえ、
わたしは動かされることはない。
このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。
わたしの身もまた安らかである。
あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、
あなたの聖者に墓を見させられないからである。
あなたはいのちの道をわたしに示される。
あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、
あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。
(詩篇16篇)

今後私がソーシャルメディアとどのように関わっていくかは分かりません。おそらくその否定的な影響力に留意しつつ、健全な利用法を探っていくことになると思います。しかし、一時的にソーシャルメディアを離れることによって、一種すがすがしい解放感を味わっているのも事実ですので、しばらくこのまま離れていようと考えています。

Be Thou My Visionという、アイルランドに古くから伝わる賛美歌があります(讃美歌 358番「こころみの世にあれど」、聖歌259番「きみはわれのまぼろし」)。昔から好きな曲ですが、特に最近その中の次の歌詞を繰り返し口ずさみ、心に刻みつけています(日本語訳は私訳です)。

Riches I heed not,
Nor man’s empty praise,
Thou mine inheritance,
Now and always:
Thou and Thou only,
First in my heart,
High King of heaven,
My Treasure Thou art.

富に心をとめることはしません
人からの空しい称賛にも
あなたこそ私の受け継ぐべき分
今も、いつまでも
あなたが、ただあなただけが
私の心で第一の場所を占めるかた
天のいと高き王よ
あなたこそ我が宝

Be Thou My Vision (私の好きなJars of Clayによる演奏です)

 

確かさという名の偶像(10)

(シリーズ過去記事         

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介シリーズ、第3章「確実性という偶像」を取り上げるのは今回が最後です。

確実性の追求という偶像

前回までの記事を通して、偶像礼拝の特徴について見てきました。これまでの議論を受けてボイドは次のように結論づけます:

ありていに言うと、その真摯な姿勢は否定しないものの、確実性を追求し、疑いを避けようとするような信仰理解は、イエスの時代の宗教指導者たちが捕らわれていたのと同じ宗教的偶像礼拝を反映していると結論づけざるを得ない。確実性を追求するクリスチャンたちが、愛と自己価値と神の前の安全を感じる―つまり自分の「救い」を確信する―ために必要とするのは、自分が正しいことがらを十分な確実性を持って信じているという自信を持つことなのである。このことは、彼らにとって「いのち」の源泉となっているのは、神ご自身と言うよりは、神について彼らが信じていることがらについての確信だということを意味しないだろうか?(p. 68)

ボイドは二つのまったく異なる信仰のあり方を提示します。一つは、(1)十字架につけられたイエス・キリストこそが神の真の自己啓示(つまり神が無条件に愛してくださるお方であるということ)であり、「いのち」の唯一の源であると信じる信仰のあり方、もう一つは、(2)私たちの信じているすべてのことがらが真理だという確信を持つことに「いのち」の源泉を求める信仰のあり方です。ボイドはこの二つは両立しないと言います。なぜなら、もしイエスの十字架のうちに神の愛が啓示されていると信じ、そこから「いのち」を得ているならば、その「いのち」は私たちが神に関して信じているその他のことがらが真理であるかどうかによって左右されることはないはずだからです。逆に、一群の教理が正しいことに確信を持つことが救いの条件であると考えているなら、その人にとって「いのち」の源泉は十字架のキリストではないということになります。

誤解を招かないために、ボイドは正しい教理を信じることの重要性を繰り返しますが、私たちの「いのち」の源は正しい教理にはないことを強調します。この区別をはっきりさせることは非常に大切であると思います。

クリスチャン信仰の「中心」

stone-91055_1920

さて、ここまでの議論で、「十字架に架けられたイエス・キリストに、神の真の姿が啓示されている」ということがボイドの信仰理解において中心的重要性を持っていることに気づかれたと思います。そこで次のような疑問が生じるかも知れません。「ボイドの提唱する信仰理解においても、この一つの点については、確実性を持って信じなければならないのではないか?結局彼の主張も、彼が批判している確実性追求型の信仰と同じではないか?

たしかに、十字架において啓示された神を「いのち」の源泉として持つためには、神が十字架においてご自身を啓示したことが真理であると信じなければなりません。そしてボイドは、私たちが信じなければならない唯一のことは「イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト」(1コリント2章2節)であるということを認めます。しかし、ボイドは3つの論点を挙げて、上の疑問に答えています。

まず第一に、十字架において啓示された神から「いのち」を得ることは、神が十字架において啓示されたという信仰内容について確信を持つことから「いのち」を得ることとは違うと言います。私たちが「いのち」を得るのは神との人格的関係からであって、神に関する信条からではありません

第二に、ボイドは十字架における神の自己啓示という中心的論点についても、絶対的な確信を持つ必要はないと言います。私たちに必要なのは、神との相互献身的な関係を築こうと行動を起こすために必要なレベルの確信を持つことだけです。

第三に、ボイドはこの中心的論点に関して、それが正しいと思い込もうとはしないと言います。むしろ、あることがらが正しいかどうかを判断するためにすべての理性的な人間がするように、ボイドはこの主張に賛成したり反対したりするあらゆる議論や証拠を吟味するというのです。(十字架上のイエス・キリストにおいて神の真の姿が啓示されているということをボイドがなぜ受け入れているかについては、本書の後の章で説明されます。)

このように、ボイドは「十字架につけられたイエス・キリスト」をクリスチャン信仰の中心に据えることを提唱しますが、そのような信仰のあり方は、これまで見てきたような確実性追求型の信仰とはまったくことなったものなのです。

ここまで、本書の1-3章を通して、「確実性追求型信仰」の問題点を見てきました。この最初の3章が、第1部「偽りの信仰」を構成しています。続く第2部「真の信仰」では、ボイドが提唱する、そして彼が聖書的な信仰と考えるタイプの信仰について議論が展開していきます。

(続く)

 

確かさという名の偶像(9)

(シリーズ過去記事        

少し間が空いてしまいましたが、グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介シリーズを続けます。今回は第3章「確実性という偶像」の続きです。

「神学」や「聖書」という偶像

あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。(ヨハネ5章39-40節)

ユダヤ人の宗教指導者たちとの対話の中で、イエスは彼らが熱心に(旧約)聖書を研究し、それに精通していたにもかかわらず、聖書が指し示している、「いのち」の源であるイエスご自身のもとに来ようとしないことを指摘しました。ボイドはこの箇所から、聖書を知り、聖書に基づいた教えを信じていたとしても、それが彼らをイエスに導くことがなければ、彼らは聖書から「いのち」を得ることができないと言います。前回定義したように、偶像とは私たちが「いのち」を得ようとして神の代わりに用いようとするあらゆるものを指します。したがって、このユダヤ人指導者にとって聖書は偶像になっていたということができます。ボイドは言います:

このエピソードは、私たちが何かを信じる信じ方によっては、私たちが信じるその何かは偶像になってしまい、キリストから「いのち」を得ることの妨げとなることがある、ということを示している。そしてそれは、私たちの信じている内容が完全に正しいものであったとしても、そうなのである!そしてこのような事態は、私たちが「いのち」の唯一のまことの源であるお方との関係のゆえではなく、私たちが信じていることがらのゆえに、自分は神とうまくやっていると確信するときには、いつでも起こるものだ。もし自分の信条の正しさに対する確信によって、私たちが神とうまくやっていると感じているとしたら、自分の信条についての確信は、事実上私たちの神となっているのである。これによって私たちは「いのち」についての偽りの感覚を持ってしまうのだ。(p. 63)

ボイドはさらに、このような信仰的態度は、誤った神観に基づいていると言います。つまり、ユダヤ人宗教指導者が前提としている神は、熱心な聖書研究や正確な聖書知識を人間そのものよりも尊ばれる神だということです。このような神観は、十字架において啓示されたまことの神の姿よりも確実に劣ったものであると彼は言います。そして、あらゆる罪と偶像礼拝の根源には、このような誤った神観、信頼の置けない、「いのち」を与えることのない神のイメージがあるというのです。

ボイドはこのことを結婚を例にして説明します。二人の人間が結婚するとき、夫婦はお互いに相手がどのような人間であるかについて、さまざまなことがらを信じて、結婚の誓約を交わします。相手についてのそれらの信念が正確なものであるか、二人は絶対的な確信を持っているわけではありませんが、ある一定レベル以上の確信があるならば、残りの生涯を通して相手に対して献身するという決断をすることができるわけです。ボイドによると、結婚生活においては相手に関する知識の確実性を追求することよりも、不確実な見通しの中でも相手の人格に対して進んで献身することが重要なのです。そして、それはまさに私たちと神との関係についても言うことができます。神との関係において重要なのは私たちの神に関する信念の確実性よりはむしろ、私たちがそのような信念を通して信じている神という人格(ペルソナ)なのです。

*     *     *

ここでボイドが述べている主張は大変重要なものであると思います。ボイドの議論の核心にあるのは、クリスチャンにとってもっとも重要なのは私たちが信じている内容の絶対的正確さやそれについての確信ではなく、キリストを通した神との人格的な関係である、ということです。ボイドは熱心に聖書を学ぶことや正しい神学的知識を持つことの重要性を決して否定しているわけではありませんが、それらは目的ではなく、あくまでも私たちがイエスを通して神と関係を持つための手段に過ぎないことを忘れてはならないと警告するのです。

教会史における最初期の異端にグノーシス主義と呼ばれるものがあります。「グノーシス」とはギリシア語で「知識」という意味です。グノーシス主義についてひとくちで説明することは大変難しいのですが、ここでの議論との関連で重要と思われる点だけを指摘すると、グノーシス主義とは神と自己に関するある特別な「知識(グノーシス)」を得ることによって救われる、という宗教・思想運動でした。

グノーシス的な救済は無知からの救いであって、罪からの救いではない。知識は救いの手段ではなく、救いそのものであった。(Everett Ferguson, Backgrounds of Early Christianity, 3d ed., p. 310)

実はこのようなグノーシス主義的な考え方は、形を変えて現代のキリスト教会の中にも見られるのではないかと思います。ある人々は教理的正確さにこだわるあまり、あたかもそれがクリスチャンの信仰生活にとって最も重要なゴールであるかのようにとらえ、人の永遠の救いは、いかに正しい神学を身につけるかによって決まると考えています。そうすると、ある特定の教理を信じるかどうかということが、救われるかどうかを左右するということになります(その「特定の教理」の内容は人によってさまざまに定義されますが)。このようなタイプの信仰者にとって、教理的な意見の相違は非常に重大な意味を持っており、この点において意見の異なる人々との交わりを拒んだり、極端な場合は彼らの救いを否定したりすることも少なくありません。

しかしこれは、人は神についての正しい神学的知識を得ることによって救われる、というグノーシス的な発想にほかならないと思われます。そしてこのような考え方はさまざまな問題を含んでいると思われます。

第一に、限界のある人間存在が、はたして神に関する完全な知識に到達することは可能なのかという疑問があります。二千年もの間、教会はさまざまな神学論争に明け暮れてきましたが、いまだに全キリスト教会が合意できるような「完全な神学」を持つには至っていません。それに、各人の神学もその信仰人生の歩みに伴い変化していきます。したがって、「完全な神学的正確さ」を追求することは非現実的ですし、ましてやそれを救いの基準にすることはできません。

第二に、神は人間を救われるかどうかを、その知識の量や正確さによって決定されるのか、ということははなはだ疑問です。もしそうだとすると、神学の博士号を持っている人間は、ちいさな子どもよりもより救いに近いことになりますが、必ずしもそうではないように思います。上の結婚のたとえで言うと、夫が妻の誕生日を一日間違えたからといって、それが離婚の理由になるでしょうか?聖書は神と人との関係を父親と子どもにもたとえていますが、子どもが父親のあらゆることについて正確な知識を持っていなければ愛されないということはありません。

ボイドが言うように、この問題は私たちが神をどのようなお方としてイメージしているかに関わってきます。私たちの信じている神は、及第点に達しなければ容赦なく落第させる厳格な教師のような神でしょうか?それとも、私たちの不完全さにかかわらず、子であるがゆえに愛し導いてくださる父親のような神でしょうか?

もちろん、どのような存在であれ、相手と意味のある人格的関係を持つことができるためには、相手についてある程度の知識を持っている必要があります。そして、交わりを深めていくにつれて、相手のことをもっと良く知りたいと思うようになるのは自然なことでしょう。ですから、神学が神との交わりの中に不要であるとか意味がないということではありません。しかし、私たちが神との人格的交わり以上に神学や聖書の知識を重視していくとき、それは私たちにとって偶像になっていくのです。

人は救いに関する特定の教理を信じることによって救われるのではありません。たとえば、「人は信仰によって義とされる」という聖書の教えは、「信仰義認の教理を信じることによって救われる」ということではありません。そうではなく、イエス・キリストと出会い、この方を主として信頼し、生きた人格的つながりを持っていく時に人は救われるのです。

(続く)

エペソ書とキリストの戦い(5)

その1 その2 その3 その4

エペソ書における霊的戦いについてのシリーズ、今回が最終回です。

10  最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。11  悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。12  わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。13  それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。14  すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、15  平和の福音の備えを足にはき、16  その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。17  また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。18  絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。19  また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。20  わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。
(エペソ6章10-20節)

この箇所でパウロはギリシア語の動詞の二人称複数命令形を用いて、「(あなたがたは)武具を取りなさい」と命じているのに、「武具(パノプリア)」という言葉は単数形で書かれています。前回4章1節の「召し」についても同様のことを見ましたが、この戦いは個々のクリスチャンがばらばらに戦う「個人戦」ではなく、教会全体が一致して戦うべき「団体戦」だと言えます。前回も見たように、パウロの手紙を個人主義的な視点からではなく、共同体的(教会的)な視点から読むことはたいへん重要です。しかも、エペソ書において「教会(エクレーシア)」と言うことばは個別の地域教会ではなく、キリストのからだとしての普遍的教会をさして使われています。霊的戦いはすべてのキリスト者が一致して行うべきものなのです。

神の武具のイメージは、旧約聖書や中間時代の文書にも見出すことができます。たとえばイザヤ書では神とそのメシヤが武具を身にまとう様子が描かれています。

主は義を胸当としてまとい、救のかぶとをその頭にいただき、報復の衣をまとって着物とし、熱心を外套として身を包まれた。(59章17節)

正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。(11章5節。メシヤについての説明)

つまり、パウロが(共同体としての)教会が身に着けるべきものとして語っている武具は、神ご自身またはキリスト(メシヤ)が身に着けるものとして旧約聖書に語られているものです。このことからも、霊的戦いが地上におけるキリストのからだとしての教会が行うものであるという、上で述べた主張が裏付けられます。パウロは共同体としての教会全体があたかもひとりの戦士であるかのようにイメージしていることが分かります。これは、キリストが十字架によって教会を「ひとりの新しい人」に造り上げた(2章15節)という内容ともつながります。

これらの武具の比喩の細部についてあまりうがった解釈をしてはなりません(たとえば救いのかぶとは頭脳つまり理性を守るものである、等々)。神の武具としての「胸当」はエペソ書では「正義」となっていますが、1テサロニケ5章8節では「信仰と愛」になっています。このことはパウロ自身、特定の武具の比喩とクリスチャンの霊的性質との間に厳密な一対一の対応関係を考えていたわけではないことを示しています。もし私たちが霊的武具の比喩をあまり字義通りに解釈するようになると、アニミズム的信仰に陥る危険があります。

個々の武具の比喩についての詳しい説明もここではしませんので、興味のある方は注解書等を参照していただきたいと思いますが、重要なのは、ここでパウロが語っている内容は、すべて本書の他の箇所でも語られている内容だということです。神の武具としてパウロが列挙している概念とそれに関連する語が本書のどのような箇所に出てくるかを見てみましょう。

・真理(真実):1章13節、4章21、24、25節、5章9節
・正義(義):4章24節、5章9節
・平和(平安):1章2節、2章14、15、17節、4章3節、6章23節
・福音:3章6節、6章19節
・信仰:1章15節、2章8節、3章12、17節、4章5、13節、6章23節
・救い(救う・救い主):2章5、8節、5章23節
・(神の)ことば:1章13節、5章26節、6章19節
・祈り:1章16節

つまり、これらの武具を身に着けて戦うとは、何か特殊なことをすることではなく、パウロがこれまで本書で語ってきたような、神に召された民としての教会の歩みを忠実に行っていくことにほかならないのです。そうしていく時、私たちは霊的な敵対勢力に勝利していくことができるのです。

まとめ

霊的戦いはエペソ書を貫く重要な主題の一つです。本書はおそらくエペソ周辺の諸教会で回覧されることを意図して書かれたもので、パウロの手紙の中でも普遍的な性格の強いものです。この手紙でパウロが展開している霊的戦いの教えも、特定の地域教会の特殊な実践について述べたものではなく、広くキリスト教会一般に適用すべきものであると思われます。

パウロにとって霊的戦いとは何よりも、神とキリストがご自分に敵対する霊的勢力と戦う宇宙規模の闘争であることが分かります。復活して神の右に挙げられたキリストは、天においてすべての敵対勢力よりも優位に立っておられます。これらの敵は世の終わりには滅ぼされる定めになっていますが、現在のところは戦いが継続しています。それは、地上においてキリストのからだとして建て上げられつつある教会を通してなされるのです。

6章でパウロが教える霊的戦いを個人主義的な視点から理解してはなりません。それは教会全体が共同体として戦う戦いであり、しかもそれは、1章で語られている、天におけるキリストの戦いの地上におけるカウンターパートなのです。

教会は天と地が出会う場です。地において教会が、歴史の中で展開する神の救いの計画の中で与えられている召しにふさわしく歩む(4章1節)とき、天と地がつながり、キリストのからだとして正しく機能することができます。そしてそのような教会を通して、神の知恵が敵対勢力に対して示されていきます(3章10節)。これこそが、教会のなすべき霊的戦いにほかなりません。

このシリーズのタイトルを「エペソ書とキリストの戦い」と付けたのには理由があります。霊的戦いはキリストご自身の戦いなのです。パウロがエペソ書で教えている霊的戦いとは、教会がその召しにふさわしく歩むことによって、キリストの戦いに参加することにほかならないのです。

エペソ書とキリストの戦い(4)

その1 その2 その3

エペソ書における霊的戦いについてのシリーズ、今回は、6章の「神の武具」の箇所についてさらに見ていきます。

10  最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。11  悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。12  わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。13  それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。14  すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、15  平和の福音の備えを足にはき、16  その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。17  また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。18  絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。19  また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。20  わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。
(エペソ6章10-20節)

パウロは10節で「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。 」と言います。ここの表現はギリシア語の動詞の受動態(「強められなさい」)が使われており、動作主が神ご自身であることを暗示しています。キリスト者は自分の力で強くなるのではなく、神によって強めていただく必要があります。ここで彼はゼカリヤ書10章12節を念頭に置いているのかもしれません。

わたしは主にあって彼らに力を与える。彼らは御名において歩み続けると主は言われる。(新共同訳)

ゼカリヤ書のこの章は捕囚からの民の帰還を描いたものであり、パウロは世の終わりに主が集められた神の民として教会が強められる様子をイメージしていたのかもしれません。エペソ書では「主」はキリストを指しますが、「主にあって」という表現はパウロの手紙の重要な鍵概念である「キリストにあるin Christ」とのつながりも無視できません。つまり、クリスチャンは「キリストにある」という教会の枠組みの中でなければ、強められることはないのです。言い換えれば、教会につながらないで一匹狼で霊的戦いをすることはできないということです。

10節で「その偉大な力」と訳されているギリシア語の表現は1章19節でも出てきます。つまりこれはキリストにあって教会の内に働く神の力のことを言っているのです。さらに、12節に出てくる「支配(アルケー)」や「権威(エクスーシア)」は1章21節に出てきたものと同じ存在です。これらのことから、パウロが6章で論じている教会の戦いと、1章で語っていたキリストの戦いが非常に密接なつながりを持っていることが分かります。パウロは1章で、神の右の座に挙げられたキリストが天における霊的敵対勢力に対して優位に立たれたことを述べています。霊的戦いにおけるキリスト者の力は、主であるキリストがすべての霊的敵対勢力に対して持っておられる権威なのです。

1章でキリストが天において勝利しておられる相手と、6章で教会が戦うべき相手が同じであることはたいへん重要です。私たちは地上において、キリストの戦いを継続しているのです。それは、教会がキリストをかしらとする(1章22節)、キリストのからだであることから当然導かれることです。天における戦いと地における戦いは別々のものではないのです。

12節に出てくる様々な霊的敵対勢力の名前について詳しく述べることはしません。ここではパウロがあらゆる種類の悪しき霊的存在について包括的に語っていることが理解できれば十分です。これらの敵はノンクリスチャンを支配している(2章2節参照)だけでなく、クリスチャンに対しても攻撃を仕掛けてきます。それをパウロは「策略」(11節)といいます。敵の攻撃はすぐにそれと分かるものではなく、策略として巧妙に仕掛けられてくるものであることが分かります。クリスチャンがそれに惑わされていくと、教会が召しにしたがって歩むことが妨げられてしまいます。エペソ書の内容から考えると、「悪魔の策略」とは、知らず知らずのうちに教会に入り込んで堕落させ、その本来の召しから外れた歩みをさせようとするような、この世の価値観や文化、罪の誘惑といったものであると考えられます。「主権」や「力」はそのような策略を持ってこの世を支配しているだけでなく、教会をもその流れに巻き込もうとしているのです。教会はこのような策略を見抜き、それに立ち向かわなければなりません。

クリスチャンはこれらの敵の策略に対してどう戦うべきでしょうか?それは、4章1節にあるように、教会の召しにふさわしく歩むことであり、神の国の価値観(その究極の表現は十字架で表された自己犠牲的な愛です)に従って生きることです。それは具体的にはパウロが4章後半から述べてきたことですが、彼は終わりにあたってそのようなクリスチャンの戦いを、「武具」の比喩を用いて要約しているのです。

(続く)

 

エペソ書とキリストの戦い(3)

その1 その2

このミニシリーズではエペソ書における霊的戦いについて概観していますが、今回は後半の4-6章について見ていきます。

エペソ書6章の有名な「神の武具」の箇所を考えるとき、この部分が4章から始まる倫理的奨励の長いセクションに含まれていることを理解することは決定的に重要です。

3章までの前半部分でパウロは、歴史の中で神が展開してこられた救いの計画について述べ、その中で教会がどのような役割を与えているのかを説明してきました。それを受けて4章冒頭ではこう語られています:

1 さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、2  できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、3  平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。(エペソ4章1-3節)

この部分は4章から6章まで続く倫理的奨励のセクションの要約といって良い部分です。ここでパウロは「召し」について語りますが、これはクリスチャン個人の召し(「自分は牧師に召されている」等)について語っているのではありません。ここでパウロは読者に対して「あなたがた」と複数形で語りかけていますが、「召し(クレーシス)」というギリシア語の名詞は単数形が使われています。つまり、ここでパウロが語っているのは、教会全体に与えられたただ一つの召し、すなわち、神の救いの計画の中で教会に与えられた役割について語っているのです。このように、パウロの手紙を近代的な個人主義の視点からではなく、共同体的な視点から読むことは大変重要です。

すでに見たように、神はキリストの復活と高挙を通して天にある支配や権威に勝利され、その祈念碑として地上に教会を打ち立てられました。この教会は、ユダヤ人と異邦人がキリストにあって一つとなることによって、天における敵対勢力の破壊的なわざをキャンセルし、神の知恵をこれらの霊的存在に対して知らしめる存在です。教会はこのような「召し」にふさわしい歩みをしていかなければならないとパウロは言います。「召し」をこのように理解すると、なぜ4章冒頭でパウロが教会の一致を強調しているかが理解しやすくなります。

この後、パウロは教会が一致し、愛によって建てあげられていくべきことをさまざまな角度から教えていきます。教会や家庭内における人間関係についてのパウロの教えは、このような「教会の召し」に照らして考えていかなければなりません。

さて、4章から続く長い倫理的奨励のセクションの最後は「神の武具」についての教え(6章10-20節)でしめくくられます。

10  最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。11  悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。12  わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。13  それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。14  すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、15  平和の福音の備えを足にはき、16  その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。17  また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。18  絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。19  また、わたしが口を開くときに語るべき言葉を賜わり、大胆に福音の奥義を明らかに示しうるように、わたしのためにも祈ってほしい。20  わたしはこの福音のための使節であり、そして鎖につながれているのであるが、つながれていても、語るべき時には大胆に語れるように祈ってほしい。
(エペソ6章10-20節)

ここで注意しなければならないのは、パウロは手紙の最後になって、突然取ってつけたように霊的戦いについて語り始めているわけではない、ということです。すでに見たように、霊的戦いのテーマは1章から6章まで、エペソ書全体を貫く一貫したテーマでした。パウロにとって霊的戦いとは、まず天においてキリストが敵対する霊的勢力に勝利されたということであり、その勝利を受けて教会が地上において行う戦いです。したがって、ここでパウロが語っている戦いは、ごく限られた専門家が行うべき特殊なミニストリーではありません。パウロは悪霊追い出しにすら直接言及していないのです。(意外に思う人もあるかも知れませんが、パウロの手紙の中で悪霊追い出しについて述べている箇所は一つもありません)。

4章からパウロは教会がその「召し」にふさわしく歩むため、クリスチャンが具体的にどのように信仰生活を送っていくべきか、実践的アドバイスを与えてきました。そのような文脈の中でパウロは霊的戦いについて語りはじめます。つまり、ここで語られているのは、すべてのクリスチャンの日常の信仰生活における戦いなのです。だからといって、そのような戦いが重要でないとかレベルが低いということではありません。教会の霊的戦いは、天にある「支配」や「権威」といった霊的存在に対して大きな力を持っているのです。

次回は、「神の武具」の箇所についてさらに深く見ていきます。

(続く)