このシリーズでは、グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)に基いて、「確実性追求型信仰」の問題点を考察してきました。今回は第3章「確実性という偶像」を見ていきます。
ボイドはこの章で、「確実性追求型信仰」の最大の問題点と彼が考える主題を取り上げます。彼は、このような信仰モデルは、聖書中最大の罪である偶像礼拝に陥っていると主張します。ボイドはこのような種類の信仰を持つ人々が意図的に偶像礼拝を行っているとか、彼らは救われないと言っているのではありません。しかし、確実性を追求し、疑いを避けようとするタイプの信仰は、確実性というものを偶像視することになってしまうと言います。
ところで、「偶像礼拝」とは何でしょうか?それは普通、真の神以外の神々、あるいはそれらの像を礼拝する行為をさすと考えられます:
あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。(出エジプト20章3-5a節)
このような狭い定義によると、一神教徒であるクリスチャンは原則的に偶像礼拝は行わないはずだということになります。しかし、パウロが「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3章5節)と述べている例からも分かるように、「偶像礼拝」にはもっと広い意味がありえます。ボイドが偶像礼拝をどのように定義しているかを見てみましょう。
まずボイドは人間には根源的な飢え渇きがあることを指摘します。人はいつでも「もっと良いもの」を求めています。より良い車、より良い仕事、より良い配偶者・・・人はこれらのものが手に入りさえしたら、人生は幸せになると考えます。ブルース・スプリングスティーンも唄っているように、「すべての人は飢えた心を持っている(Everybody’s got a hungry heart)」のです。
ところが問題は、たとえ望むものを手に入れたとしても、その喜びは束の間であり、その渇望を完全に満たすことは決してできないということです。このようにとらえどころのない、決していやされることのない渇望をC・S・ルイスはドイツ語のSehnsucht(あこがれ)という言葉で表現しました。これは何か名状しがたい、手の届かないものに対する深い切望を表しています。クリスチャンにとって、このSehnsuchtは神へのあこがれにほかなりません。アウグスティヌスもまさに同じことを語っています:
あなたは、わたしたちをあなたに向けて造られ、わたしたちの心は、あなたのうちに安らうまでは安んじないからである。(『告白』第1巻第1章)
さて、ボイドはこのようなあこがれのもっとも重要な要素は、神の完全な、無条件の愛を体験することであると言います。そして私たちは、神にとって無制限の、これ以上ない価値を持つ存在であることを体験的に知り、その愛と価値の中に絶対的に安らうことを欲しているのです。神を信じているかどうかにかかわらず、人間はこのような無条件の愛・この上ない価値・絶対的な安全を感じる度合いに応じて、この世界にあって生きている実感を持つことができると言います。そこでボイドは、Sehnsuchtとはこのような種類の「いのち」への飢え渇きであると言います。(ボイドはこのようなあこがれの対象としての「いのち」を単なる生物学的な生命と区別しています)。そしてこのようなあこがれは、神ご自身の永遠に満ち満ちた「いのち」への渇望であり、その「いのち」は三位一体の神が永遠に持っておられる完全な愛の交わりにほかならないと言うのです。
私たちはこの「いのち」をどこで見つけることができるのでしょうか?ボイドによるとそれはイエス・キリストであり、その十字架に表された自己犠牲的な愛です。彼は言います:
カルバリーで啓示された神の愛以外のいかなるものに対しても、私たちが「いのち」を求めていくなら、それは偶像になり、私たちに「いのち」を与える代わりに、私たちの内から「いのち」を吸い取ってしまうのだ。(p. 61)
ボイドによると、偶像とは「神のみが満たすことのできるものを満たそうとして私たちが用いようとするあらゆるもの、すなわち、神の代替物として私たちが用いようとするあらゆるもの」を指します(p. 63)。私たちの内奥にあるもっとも深い必要―無条件の愛・この上ない価値・そして絶対的な安全、すなわち「いのち」―を満たすために神以外のものに頼ろうとするなら、それは私たちにとって偶像となるのです。
さて、現代世界にはさまざまな種類の「偶像」が満ち溢れています。その中には宗教的・霊的な偶像も含まれます。これは異教の神々の像だけを指すのではありません。それは特定の儀式であったり、行動であったり、信条であったりします。神ご自身が無償で与えてくださる「いのち」をいただく代わりに、神のために何かを行ったり、神について何かを信じたりすることによって「いのち」を得ようとする時、それは偶像となるのです。
それでは、この記事の冒頭で述べた「確実性」はどのようにして私たちの偶像となるのでしょうか?次回はそのことについて見ていきたいと思います。
(続く)
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