確かさという名の偶像(7)

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今回もグレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)第2章「感情のとりこ」の続きを見ていきます。第2章は今回で最後です。

傲慢と偽善

ボイドによると、確実性追求型信仰のもう一つの問題点は、それがえてして偽善的になってしまうことです。

クリスチャンも含め多くの宗教の熱心な信者は、自分たち以外の宗教を信じる人々が、彼らはもしかしたら間違っているかも知れないという可能性を考慮しないと言って、それらの人々を批判します。しかし、確実性追求型の信仰は、まさにそのような傲慢な態度を生みやすいと言います。ボイドはこのようなダブル・スタンダードな態度はたいへん偽善的であると言います。彼らが他人に要求する基準を、自分たち自身にあてはめることを拒絶しているからです。

ボイドは、自分自身の信仰に対して疑問を持つことは、クリスチャンにとってもノンクリスチャンにとっても良いことだと言います。これは、いつでもすべてを疑いながら生きていくということではありません。しかし、クリスチャンもノンクリスチャンも、自分たちの信念が間違っているかも知れないという可能性を考慮して、自分の持っている信念を時々批判的に吟味してみることは有益であると言います。

ところが、確実性追求型の信仰者はそのような自己吟味ということができません。既に述べたように、自分の確信に浸りきって生きることは心地よく、自分は間違っているかもしれないという疑いを持つことは辛いことです。しかし、誰であっても、自分が正しいという確信を持つことが楽しいからと言って、自分だけが正しくて他のすべての人が間違っていると思い込むことは、罪とは言わないまでも傲慢なことです。ボイドは「吟味を受けつけない信仰は信じるに値しない信仰である。」と言います(p. 47)。

危険な宗教

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ボイドによると、過激な宗教テロリストの例からも明らかなように、キリスト教も含めて、疑いを抑圧し、確実性の感覚を持つことを人々に強いる宗教は潜在的に危険な宗教なのです。ボイドは、歴史を通じて行われてきた宗教対立にもとづく流血事件の大多数は、人々が確実性のもつ快楽に代えて疑いの持つ苦痛を受け入れることができさえすれば、避けられたかも知れないと言います。なぜなら、神が自分たちの味方であるという確信こそが、人々をして他の人間を殺し、自らも殺されるリスクを負うことを可能にするからです。

このような洞察はボイドだけのものではありません。たとえばボブ・ディランは名曲「神が味方(With God on Our Side)」の中で次のように歌っています。

And you never ask questions
When God’s on your side
神様が味方してくださるときにゃ
質問なんぞしないもんさ

多くのクリスチャンは「キリスト教だけは真理なのだから、疑いをしりぞけ、確実性を追求することが許される。」と考えます。しかし、他宗教の信仰者も自分の宗教について同じことを考えているとボイドは指摘します。そして、もしある宗教が本当に真理であるなら、その真理はそれを信じる者が確信を持つ度合いによって証明されるのではなく、証拠自体がそれを証明するはずだと言います。

真理の追求?

ボイドの最後の論点は非常に逆説的です。彼は、自分の信仰内容が真理であることに確信を持とうと努める人々は、実際にはその信仰内容が真理であるかどうかには関心がないというのです。これはどういう意味でしょうか?

あることがらが真理であるかどうかを判定する理性的な方法は、それが真理であるという主張を裏付ける証拠や議論がどれほど強力であるかどうか、を考察することです。聖霊による促しや他者の証しはこの理性的方法を補うものであって、それに取って代わるものではありません。私たちは日常的にこのような方法を使って、さまざまな主張(たとえば商品の広告文句)が真理であるかどうかを確かめているのです。

しかし、ボイドによると、確実性追求型信仰者はまさにこれとは反対のことをしています。もし私たちの信じている内容が私たちの永遠の運命を左右するのなら、あらゆる方法を使ってその信仰内容の真理性を検証すべきです。しかし、確実性追求型の信仰モデルはその反対に、証拠を理性的に吟味することを拒否し、かえってそれが真理であることを何が何でも信じ込もうと努力することを求めるのです。このことからボイドは、このようなタイプの信仰者は、真理を信じることよりはむしろ、自分たちがすでに真理を信じていると確信し、自分たちが間違っているかもしれないという苦痛を避けることの方に関心があると結論づけます。

確かなことは、人は自分の信じていることがらが真理であるかどうかに関心を持ちながら、同時に自分がすでに信じていることがらが真理だと確信しようと努めることはできないということである。真理を信じるという目標と、自分がすでに真理を信じているという確信を持つという目標とは、互いに排除しあうものなのである。(p. 51)

このことからボイドは、確実性を追求する営みは利己的な追究であるといいます。確実性追求型信仰者は自分たちが真理を追求していると主張しますが、実際のところ彼らが追い求めているのは、確実性の感覚にともなう幸福感を味わい、同時に疑いにともなう苦痛を避けることだからです。

ボイドはこのようなかたちで信仰を追求する人々が真摯な動機を持っていることを疑ってはいません。しかし同時にボイドは、私たち人間がどれほど小さく無知で堕落した存在であり、この曖昧な世界において最善を尽くして真理を知ろうと努力している存在にすぎないかということを正直に認めるべきだと言います。私たちは自分の信じていることがらに対する絶えざる挑戦や反論に直面しながら生きており、その過程でさまざまな信仰内容を修正したり放棄したりすることが起こってくるのは当然なのです。

まとめ

これまでボイドは、確実性追求型信仰の問題点を列挙してきました。2章を読み終えるにあたり、これまでのポイントを整理してみましょう。

1.確実性追求型信仰は、非理性的である。
2.確実性追求型信仰が前提とする神観は、イエス・キリストにおいて啓示された神のイメージとそぐわない。
3.確実性追求型信仰は魔術的である。
4.確実性追求型信仰は硬直した信仰的態度を生み出す。
5.確実性追求型信仰は学ぶことに対する恐れを生み出す。
6.確実性追求型信仰は偽善的傾向を生み出す。
7.確実性追求型信仰は潜在的に危険な宗教を生み出す。
8.確実性追求型信仰は真理の追求には関心がない。

次の第3章でボイドは、彼によれば確実性追求型信仰の持つ最大の問題点について論じていきます。

(続く)