確かさという名の偶像(6)

(シリーズ過去記事     

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)第2章「感情のとりこ」の続きです。ボイドは確実性追求型信仰の問題点をさらに挙げていきます。

硬直した信仰

ボイドは、「疑いは信仰の敵」という考え方は、信仰に関する硬直した態度を生み出すと言います。しかし、複雑で曖昧な現代世界に生きる人々にとって、このような考え方は受け入れ難いものとなってしまっています。

このタイプの信仰は、ひと揃いの永遠の真理から成り立っており、それをすべて受け入れるか拒否するかの選択を迫ります。このような信仰姿勢にとっては、これらの真理のいくつかだけを受け入れたり、あるいはある程度までしか受け入れなかったり、留保つきで受け入れたりといったりすることは許されません。

この硬直したキリスト教理解においては、信仰は人が答えを探し求め、その途中で信じる内容を変えていく可能性もある旅路であるとは見られていない。それは固定化されたパッケージであって、人はそれについて確信を持つように努めなければならないのである。(p. 42)

このようなキリスト教信仰の理解が多くの人々にとって実行可能であった時代もありましたが、多元的で複雑で曖昧な現代世界においてこのようなタイプの信仰を保持していくことはますます難しくなってきています。ボイドはこのような信仰理解が、(アメリカにおいて)多くの若者が教会を離れていく大きな理由になっているといいます。若いクリスチャンが世の中に出てその世界観を拡張していく時に、もしそのキリスト教信仰の一部にでも深刻な疑問を持つようになると、その信仰の全体が危機にさらされるようになるからです。

ボイドが指摘しているような「すべてか無か」の二者択一を迫る信仰のあり方はキリスト者の一致にとっても有害であると思います。このような信仰理解はキリスト教信仰において本質的なことがらと周縁的なことがらを区別することができないからです。このような信仰理解が極端な形をとると、「自分たちとすべて同じことを信じていないと救われない」というカルト的信仰に至る危険性があります。現代のような情報化社会では自分とは異なる信仰的背景を持つ教会の教えに触れることはいとも簡単にできてしまいます。ですから、牧師が信徒の受け取る情報を完全にコントロールすることは不可能ですし、そもそもそのようなことは健全ではありません。今日求められる健全な信仰のあり方とは、多様な信仰的立場があることを前提とした上で、本質的なことがらで一致できるならよしとすることではないでしょうか(このことについては、過去記事「違いの違いが分かる男(女)」をご覧ください)。

学ぶことへの恐れ

上の問題に関連して、ボイドは確実性追求型信仰は信仰者に学ぶことへの恐れを植えつけると言います。

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すでに見たように、確実性追求型信仰は、人が救われるためには特定の教えを確信を持って受け入れることが必要であると主張します。このような信仰を持つ人にとって、もしそれらの確信が揺らぐようなことがあれば、その人は永遠の救いを失うばかりでなく、同じような信仰を持っている人々の共同体からも受け入れられなくなり、自分のアイデンティティも、人生の目的も幸福も失うことになってしまいます。疑いを持つことによって失うものがこれほど大きいとすれば、その人が自分の確信にチャレンジを与える可能性のある本を読んだり、異なる意見の人々と対話することを恐れるようになるのはごく当然に思われます。

ボイドはさらに、神経学の研究によると、私たちにとって重要性を持っている信念を確証するような事実や意見に触れた時、私たちの脳の快楽中枢が活性化されるといいます。その逆に、それらの信念に対立するような事実や意見に接するとき、脳の中で恐れの反応をコントロールする扁桃体と呼ばれる部位が活性化されることが明らかにされたと言います。このことは、すでに見たように、認知的不協和が当人にいかに苦痛をもたらすかを裏付けてくれます。ですから、学ぶということは潜在的に苦痛を伴う経験になる可能性があるのです

ボイドによると、疑いを敵視する信仰モデルのセールスポイントは、このモデルを受け入れる人々に、確信を持つことに伴う快楽を味わい、疑いに伴う苦痛を避けることを許してくれることです。このモデルにとっては、それはただ許されるだけでなく、美徳でもあるのです。しかし、そのためには払うべき代償があります。彼らはその確信を脅かす可能性のあるあらゆるものから自分を隔離しなければならないのです。それはまた、彼らの信念と対立する可能性のある領域の学びについて恐れを持つことでもあります。

そして、このようなタイプの信仰者が実際に自分の確信を脅かすできごとに直面した時には、それに対して激しく抵抗することになります。ボイドは、アメリカの保守的キリスト者が偏狭で不寛容だというありがたくない評判を得ていることの理由であり、さらには歴史上に宗教の名による流血沙汰の絶えない理由でもあると言うのです。

(続く)

 

 

 

 

 

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