確かさという名の偶像(3)

その1 その2

グレッグ・ボイドの著書Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介記事、今回は第1章「苦痛を受け入れる」を見ていきます。

ボイドはクリスチャンになってすぐの時期に通っていた教会で見られたタイプの信仰について語りますが、それは彼の経験によると大多数のクリスチャンにも見られるものだと言います。それは前回も見たような「確実性追求型の信仰」、すなわち、「信仰の強さは心理的な確信の強さに比例する」という考えです。このタイプの理解にとって、疑いは信仰の敵と見なされます。本書でボイドはこのタイプの信仰は聖書的なものでなく、かえってクリスチャンの信仰と教会の働きを疎外するものであることを論じていきます。

このタイプの信仰は、「人は救われるためには、ある一定レベル以上の確信を持たなければならない」という考え方に表れています。たとえば、聖書の中に出てくるいくつかの物語の史実性に確信を持てないクリスチャンは、「自分は果たして救われているのだろうか」という疑問を抱くことがあります。ボイドが例としてあげている疑問は、多くの人に思い当たるものではないでしょうか:

・疑いを抱いている私は「救い」からもれているのではないだろうか?
・イエスが神の子であることはかなり信じられるけれども、100パーセント確信は持てない。私はまだ「救われて」いるのだろうか?
・私の子どもがいやされなかったのは、神が彼女をいやしてくださろうとしておられることを私が疑ったからではないだろうか?
・夫の心を神が変えてくださるためには、どれほどの信仰が必要なのだろうか?
・神が私と家族を気にかけていてくださると信じるのには葛藤がある。私が仕事を見つけられないのはそのせいだろうか?
(p. 25)

ボイドは、もし信仰の強さが心理的な確信の度合いによって測られるのであるなら、信仰を強めるためには、疑いを脇へ押しやることが必要になってくると言います。そして彼は、このようなタイプの信仰を、遊園地にある力試しのアトラクションにたとえています。これはstrength tester gameまたはhigh strikerと呼ばれるもので、ハンマーで装置の定められた部分を叩くとパックが跳ね上がり、その力が十分に強ければ、タワーの上部に取り付けられたベルが鳴るというものです。

StrengthTester

確実性追求型の信仰によると、クリスチャンは信仰のハンマーをできるだけ強く打ち付けてパックを跳ね上げようとします。信仰のパックが確実性というベルの近くまで上がれば上がるほど(つまり彼らの心理的な確信が強ければ強いほど)、信仰が強いことになり、それは神を喜ばせたり祈りの答えを引き出したりすると言うのです。たとえばタワーの高さの25%までパックが上がるレベルを「救いのレベル」とすると、そこまでの確信を持っているクリスチャンはとにもかくにも救いにあずかることができます。同様に50%まで上がると、神から基本的な祝福を受けることができ、75%まで上がるとかなり華々しい祈りの答えを受け取ることができます。そして、もし疑いを完全に排除することができれば、確実性のベルを鳴らすことができ、どんな祈りでも答えられるようになるというのです!

これはやや戯画化されたたとえですが、このような信仰は意外と多くのクリスチャンに見られるものではないかと思います。しかし、ボイドはこのような信仰は確実性を偶像視することにつながると言います。

ボイドによると、このような信仰的態度を生み出す動機の一つに、認知的不協和に伴う苦痛を避けようとすることがあります。その例として、ボイドは自身の信仰の歩みの中で経験した認知的不協和について語ります。

ボイドは彼がクリスチャンになった後の最初の1年ほどは、救いの喜びと神に対する確信に満ちた至福の時であったと回想します。しかし彼の信仰は、大学で「進化生物学入門」のクラスを受講したことで大きく動揺することになります。彼の所属していた教会は「若い地球の創造論」の立場を取っており、創世記1章の字義的解釈にこだわり、地球の年齢は1万年足らずであると教えていました。ボイドは自分の信仰はこのクラスを受講した後も若い地球の創造論に対する揺るがぬ確信を持ち続けられるかどうかにかかっていると感じていました。彼は万全の準備をして(創造論の立場から進化論を論破する書物を3冊読んだといいます)クラスに臨み、あわよくばクラス全員を創造論者にしようと、果敢に教授に挑戦しました。その結果は無残なものに終わりました。温厚な教授は優しくしかし徹底的にボイドの反論を粉砕してしまったのです。その結果、ボイドは自分の信仰に対して疑いを持つようになってしまいました。そしてこの疑いは、苦痛に満ちた認知的不協和をもたらしました。彼は信仰への渇望と、生物学的進化が彼の信仰に対して突きつけた様々な疑問との間に引き裂かれてしまったのです。彼は疑うことを知らなかったあの至福の状態に戻りたいと切望しましたが、それは叶えられませんでした。ついに彼は、一時的に信仰を失うまでになったのです。

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最終的にボイドは信仰を取り戻すことになるわけですが、ここで重要なのは、世界の起源に関する特定の神学的立場が正しいかどうかということではありません。ボイドが指摘しているのは、私たちのアイデンティティや価値、目的、安心といった信仰に関わる重要な事柄について疑いを持つことは、たいへんな苦痛だということです。しかしボイドは、学びと成長のプロセスにおいては、ある程度の苦痛はつきものであると言います。たとえば、小さな子どもがサンタクロースは本当はいないのだということを受け入れるのはとても辛いことですが、いつかはそのことを認めなければなりません。それが成長するということです。時として人々は自分が慣れ親しんできた確信を手放すことに対して激しく抵抗します。しかし、私たちが真理を追求していこうとするなら、この種の苦痛を避けることはできません。ボイドはこの章の終わり近くで、読者に対して次のように語りかけています。

ここで手の内を見せてしまうと、私はあなたにこの確実性追求型の信仰について、そしてそれとともに、あなたが大切にしているだろう多くの信念や仮定についても再考して欲しいと求めていこうとしている。そして私はあなたを、私たちの世界が複雑さと曖昧さと答えの出ない疑問に満ちていることを受け入れるような信仰を持つ道へと、招待したいと思う。それは、絶対確実な立ち位置などないといことを受け入れ、しかも同時に、私たちがキリストにすべての信頼を置くのに十分なだけの理由さえあれば、そのような立ち位置は必要ないと言うことのできる種類の信仰である。(p. 32)

確実性追求型信仰の問題点について、次回以降もさらに見て行きたいと思います。

(続く)