確かさという名の偶像(2)

その1

今回からグレッグ・ボイドの著書Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の内容を少しずつ紹介していきます。今回は序章を取り上げます。(前回の記事では、留学時代に通っていた教会の牧師でもある同氏を「ボイド師」と呼んでいましたが、レビューという性格もあり、記述の簡潔さのためもあって、以後は敬称なしで書かせていただきます。)ちなみに”benefit of the doubt”というのは、「疑わしきは罰せず」を意味する英語の慣用表現ですが、キリスト教信仰における疑いの肯定的な役割にひっかけたタイトルになっています。

benefit-of-the-doubt

「信仰」とは何か?これが本書の大きなテーマですが、ボイドは「信仰が強い」とはどういうことかについて考察します。彼自身が最初に回心した教会を含め、多くのクリスチャンは信仰の強さはその人がどれだけあることがらについて強い確信を持っているかによって決まると考えています。このような信仰理解によると、「疑いは信仰の敵」であることになります。このようなタイプの信仰をボイドは「確実性追求型の信仰certainty-seeking faith」と呼びます。

しかし、ボイドはこのような信仰理解に対して疑問を投げかけます。確実性追求型の信仰によると、ある人の祈りが応えられる(たとえば病気が癒されるなど)かどうか、あるいはその人が救われるかどうかといった信仰上の問題は、その人がどれだけ強い確信を持っているかどうか、逆に言えばどれだけ自分の思考の中から疑いを排除することができるかによって測られます。しかし、クリスチャンの信仰は本当に、あることがらについて強い確信を持つ心理的能力によって評価されるべきなのでしょうか?

ボイドはそのような心理的能力は、当人の人格の質とは無関係であると考えます。ある人々は生まれつき単純で物事を信じやすい性格を持っていますし、別の人々はより物事を批判的に捉え、あることがらが本当であるかを問い続けてやまない人もいます。一般的にどちらかというと後者のグループに属する人々のほうが知的レベルが高いと思われますが、皮肉なことに「信じて疑わない」という「能力」は、前者のほうが高いということになるのです。これはクリスチャンの信仰の質がその人の知的能力に比例するということではありませんが、人が持って生まれた心理的傾向によって信仰の質が測られるのは、確かにおかしなことであると言わざるを得ません。

このような「確実性追求型信仰」の陥りやすいもう一つの落とし穴は、そのようなタイプの信仰を持つ人は、どのような種類のものであれ、最初に教えられた信仰内容にしがみつくことを余儀なくされるということです。もし最初に訪れた教会で語られた教えが「真理」であり、その内容を疑わずに信じることにその人の永遠の運命がかかっているとなると、すでに教えられた「真理」に対して疑いを持ったり、異なる信仰理解の可能性を探ることは非常に難しくなります。しかし、もしそうだとすると、クリスチャンの信仰内容はさまざまな環境的要因(たとえば最初に洗礼を受けた教会の教理的特徴)によって決定されてしまうことになります。これが本当に信仰のあるべき姿なのでしょうか?

ボイドは、このような「確実性追求型信仰」には重大な問題があると言います。

考えても見てほしい。あることがらを信じるとは、それが真理だと信じることである。けれども、もしあなたが自分の信じていることが真理であるかどうかに本当に関心があるなら、その信念を成り行き任せで決めることはできないはずだ。ある信念が真理であるかどうかを決定する唯一の方法は、それを理性的に調べることである。つまり、そのことがらを疑ってみなければならない。人は自分の信念がもしかしたら間違っているかもしれないという可能性に対して真に心を開くことがなければ、それが真理であるかどうかに関心をもつことはできない。他に道はないのだ。けれどもこれこそ、確実性追求型の信仰が妨げるものなのである。(Benefit of the Doubt, p. 14)

つまり、皮肉なことに「確実性追求型の信仰」は「真理」を固く信じて疑わないと主張しながら、同時にそれが本当に真理であるかどうかには関心がない、ということになるのです。

これと関連して、多くのクリスチャンは、信仰とは無数の「信仰箇条」から成っており、そのどれか一つでも崩れるならば、キリスト教信仰全体が危機にさらされると考えています。ボイドはこのような信仰のあり方を「トランプの家」にたとえています。

house-of-cards-763246_1280

このような信仰のモデルでは、クリスチャンは自分の信仰を構成するすべての要素について絶対的な確信を持つ必要があり、そのうちどれか一つでもその真理性が疑われるならば、クリスチャン信仰のすべてが崩壊してしまうと考えます。そのようなクリスチャンの信仰は、トランプの家のように、各要素の微妙なあやういバランスの上に成り立っているのです。

このことの一例として、ボイドは聖書に関するある特定の見方を取り上げます。多くの福音派のクリスチャンは「聖書は霊感された神のことばである」という教えを「聖書のすべての記述は霊的だけでなく歴史的にも正確なものである」というふうに理解しています。しかし、聖書の権威をこのような形で理解するならば、もし聖書の中の一箇所でも歴史的に誤っていることが証明されれば、聖書の権威全体、ひいてはキリスト教信仰の全体が崩れてしまう、ということになってしまいます。そこまで行かなくても、どんな細かい聖書記述でも、その史実性に疑いを差し挟むだけで、クリスチャンの信仰全体が揺さぶられることもあり得ます。これはまさに「トランプの家」的な信仰理解にほかなりません。これに対してボイドは、聖書が霊感された書であることを信じるために、すべての聖書の物語が歴史記述の正確性に関する現代的概念と合致している必要があると考える理由はないし、彼自身の存在の核を形成する、キリストとのいのちに満ちた関係が、彼が聖書の物語の歴史的信憑性をどう評価するかに影響されるわけでもないと言います。

誤解を招かないように付け加えますと、ボイドは聖書が霊感された神のことばであると信じていますし、聖書記述の史実性はどうでも良い問題だと言っているのではありません。この問題は本書の後の章でさらに詳しく論じられていますので、その時にまた取り上げようと思います。にもかかわらず、前の段落で述べたようなボイドの聖書観を受け入れないクリスチャンもいるでしょうが、そのような人々であっても、「聖書のあらゆる記述が歴史的に(あるいは科学的に)真理である」ということに信仰の土台を置こうとする立場が、「トランプの家」的信仰理解につながると言うボイドの主張は、真剣に考察するに値するものであると思います。

さて、ボイドはこのような「確実性追求型の信仰」は、いろいろな問題をはらんでいると論じます。一つには、「人は信仰によって救われる」という教えが「人はある特定の信条を確信を持って信じることによって救われる」というふうに誤解して受けとめられてしまうために、多くのクリスチャンの信仰告白と実際のライフスタイルがまったく一致しないという悲しむべき現実があります。

さらにボイドは、このようなタイプの信仰理解は、とりわけ現代のクリスチャンに重大な知的葛藤を与えるために、一方では多くのクリスチャンが教会を去り、他方ではノンクリスチャンがキリスト教をまともに相手にしない大きな原因になっていると言います。かつては「キリスト教世界」に住む大多数のクリスチャンは、その信仰に対して異を唱える別の信念体系からのチャレンジを受けることなく、一生を終えることが可能でしたが、今やそれは夢物語になりました。急速に多元化し、情報化する現代社会の中にあって、クリスチャンたちが自分とは異なる信仰・信条を持つ人々と接する機会はますます増えています。「確実性追求型の信仰」はこのような知的チャレンジに柔軟かつ効果的に対処する能力が弱いのです。

ボイドは、このような問題をはらんだ「確実性追求型の信仰」は聖書的な信仰ではないと言います。「確実性追求型の信仰」は心理学的な性質をもっている、つまり信仰者の精神状態が問題とされるのに対し、聖書的な信仰では契約的な性質、つまり信仰者がその生きざまによって信仰対象へのコミットメントをどのように表すかが重要になってくると言います。ボイドが本書で提唱しようとしている聖書的な信仰理解は、理性に根ざしながらも、さまざまなレベルの疑いや未解決の問題とも両立可能なものであると言います。このような種類の信仰は「トランプの家」的な「全か無か」のアプローチではないため、信仰内容のある部分の真理性(たとえば一部の聖書記述の史実性)が疑われたとしても、クリスチャンの信仰全体が揺るがされることはないと言うのです。

最後にボイドは本書の中心的主張を次のように要約しています。

私の主張は、信仰を建て上げ実行するために最も聖書的で知的にも実行可能な方法は、私たちの信仰のあらゆる側面において、「イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト」(1コリント2章2節)を中心に据えることだ、ということである。(中略)私たちがこの基盤において、神に人生を捧げるに十分な程度の確信を持つことができさえすれば、私たちは行く手に立ちふさがる、どのようなことがらについてのいかなる疑いや混乱も、それがどんなに広く深いものであろうとも、恐れる必要はない。実際のところ、私たちが十字架につけられたキリストにしがみついている限り、私たちを悩ます疑いから逃れる代わりに、それを受け入れ、どのように疑いから恩恵を受けて成長することができるかを、平静な心で御父に求めることができるのである。(p. 19)

以上が序章に述べられている本書の基本的な主張です。次回からは各章の内容をたどりながら、さらに詳しく見ていきたいと思います。

(続く)

確かさという名の偶像(2)」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: 揺らぐ信仰 – 随想録

コメントは受け付けていません。