天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。
「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」
私たちが祈る時には、物質的な必要だけでなく、関係における必要についても祈るべきです。それには神との関係と人との関係の二つの側面が含まれます。私たちが健全な信仰生活を歩んでいくためには、この二つの側面がどちらも正されていく必要があります。すべての人は罪人であり(ローマ3章23節)、神と人に対して罪を犯しながら生きている存在です。したがって、すべての人の人間関係また神との関係の回復は罪のゆるしによってなされていく必要があります。
「罪」と訳されていることばはマタイ6章12節では「負債ofeilēma」、並行箇所のルカ11章4節では「罪hamartia」となっています。当時のパレスチナの日常語であったアラム語においては、「負債」は罪を表す慣用的な表現でした。罪というのは神に対する負債と考えられていたのです(コロサイ2章14節参照)。したがって、これらの表現は基本的に同じ内容を指していると考えられます。
私たちが日々神にゆるしを求めて行くというのは、救いを得るためではありません。私たちのすべての罪の代価はイエス・キリストの十字架によってすでに支払われ、イエスを信じる私たちは救いをいただいているのです。私たちはまずそのことを感謝する必要があります。同時に、クリスチャンであっても日々罪をまったく犯さないで完璧な歩みをすることは現実的に不可能です。よく言われるように、聖書でいう「罪」とは「的外れ」という意味であり、「悔い改め」とはただ悪事を後悔するということではなく、神の御心に沿った生き方へと方向転換することです。ここで言われているのも、信仰の歩みの中で道から外れたらすぐに方向転換をして神に向きを変え、正しい方向に歩き始めることです。
すでにこのシリーズで何度も強調してきましたように、この祈りも神の国の到来を求めるという主の祈りの文脈の中で考える必要があります。神の国が来るとは、神の支配が行われることであり、神の支配とは、恵み深い父の愛によってすべての関係が規定されることです。私たちが罪のゆるしを祈るのは、私たちと他者との関係、神との関係に愛と平和が満ち溢れ、それによって神の国が地上に現されていくためなのです。
さて、この祈りは主の祈りの中で唯一私たちの行いが条件になっている祈りです。イエスは、私たちが人の罪を赦すことなしに、天の父にゆるしを求めることはできないと言われます。しかも、マタイ福音書では主の祈りの後に念押しするかのように、イエスはゆるしの必要性を説いています(6章14-15節)。さらに、18章21-35節でもイエスはたとえも交えながら他者の罪をゆるす必要性について弟子たちに教えていますが、その結論部分でこう言われています:
「あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。(マタイ18章35節)
ちなみに、マタイ18章では教会内におけるクリスチャン同士の関係が主題になっていますが、山上の説教における罪のゆるしも、同様に教会内の人間関係について語られているように思えます(5章23-24節を参照)。もちろん、クリスチャンがノンクリスチャンの罪をゆるすことを妨げるものは何もありませんが、主の祈りが神の国が地上に到来することを願う祈りであり、教会が地上における神の国のもっとも顕著な現れであるならば、クリスチャン同士がゆるしあうことの重要性は強調してもしすぎることはないでしょう。
このように、マタイ福音書では互いの罪をゆるしあうことが繰り返し強調され、しかもそれが神からのゆるしをいただくために必要不可欠であることが強調されています。これは行いによらない、恵みによる救いと矛盾するのでしょうか?必ずしもそうではありません。スコット・マクナイトは、山上の説教の注解書の中で、このことを次のように説明しています。
1.神は私たち(のはるかに重い罪)をゆるしてくださった。
2.それゆえ、私たちは神の恵みを拡大するために、他者をゆるすべきである。
3.もし私たちが他者をゆるさなければ、私たちは自分たちがゆるされていないことを示している。
4.ゆるされた人々は他者をゆるす。
5.しかし私たちが人をゆるすことによって、神のゆるしを得ることはできない。
これはヤコブ書における、信仰と行いの関係に似ていると言えるかも知れません。私たちは良い行いをするから救われるのではありませんが、信仰によって獲得される救いのリアリティは、必然的に良い行いを通して表されてくるはずです。まったく良い行いの伴わないクリスチャンは、その信仰と、したがって救いのリアリティを疑われてもしかたがありません。同様に、神の恵みによってゆるしを得ているクリスチャンは、その恵みを体現して生きる者とならなければなりませんし、そうであるなら、当然他者の罪もゆるすことができなければならないはずなのです。
ここにも、神の国の到来に関する「すでに」と「いまだ」の両側面があるように思います。キリストを信じたからといってすぐに聖人君子のような生き方ができるわけではないのと同様、クリスチャンであるからといって他者をいつも完全にゆるすことができるとは限りません。しかし、天の父が無限のあわれみによって私たちをゆるしてくださったのと同様、すべての人が互いにゆるしあって生きるというのが、世の終わりにおける神の国の完成の一つの表れであり、クリスチャンはそのような終末的リアリティを先取りして生きるようにと招かれているのだと思います。
このようなゆるしのリアリティはイエス・キリストにおいてすでに起こりました。十字架につけられたイエスは、自分を殺そうとする者たちについてこう祈られました。
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。(ルカ23章34節)
この箇所から、クリスチャンが他者をゆるすとは、父なる神から与えられるゆるしの恵みを他者へと取り次ぐ行為であると言えるかもしれません。クリスチャンはこのキリストにあって罪のゆるしを体験した存在であると同時に、敵をゆるしたキリストの足あとに従う者として生きるように召された存在です。キリストの十字架によって罪がゆるされたからこそ、私たちは他者の罪をゆるすことができます。と同時に、私たちが他者をゆるす時、私たちはまさに、その人々に対して、キリストにおいて示された神の恵みとゆるしを体現する存在となるのです。これはまさに、主の祈りの中心テーマである、「神の国(支配)が地上に現されていくこと」であると言えます。
このように考えるなら、主の祈りにおいて神に罪をゆるしていただくことを求める祈りに、他者の罪をゆるすという「条件」がつけられているのは、決していたずらに罪のゆるしを難しくするものでも、クリスチャンを束縛するものでもなく、ましてや行いによる救いを教えるものでもなく、神による罪のゆるしを本当の意味で体験するとはどういうことかを明確化させるものであると言えます。私たちが神に罪をゆるしていただくことと、他者の罪をゆるすこととは、車の両輪のように働いて、地上に神の国を拡大していくのだと思います。
(続く)