「主の祈り」を祈る(4)

(シリーズ過去記事   

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

「・・・我らの父よ。」

前回は主の祈りの冒頭の神への呼びかけの部分について、私たちが祈るべき神は「天」におられる神であることについて書きました。この神に対して「父」と呼びかけるように、イエスは弟子たちに命じられました。神が私たちの「父」であるというのは、大きく二つの意味があります。

まず第一に、神は私たちの創造者という意味で「父」なる方です。

はじめに神は天と地とを創造された。 (創世記1章1節)

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。(創世記1章27節)

神は人間を含めて天地万物を創造されました。私たちは神によって造られ、生かされている存在であるという意味で、「父」なる神の子どもであると言えます。

すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。(エペソ4章6節)

第二に、神は私たちをキリストにあって贖ってくださり、ご自分の子としてくださったという意味で、「父」なる方です。上述の創造者という意味では、神はクリスチャンであるとないとを問わず全ての人間の「父」ですが、この救済者としての意味では、神はクリスチャンにとって特別な意味で「父」である、ということができます。

あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。(ローマ8章15節)

「アバ」は当時のパレスチナに住むユダヤ人の日常言語であったアラム語で、親しみを込めた父への呼びかけの表現です。天地の主であり、王である神を父と親しく呼ぶことができるのは、おどろくばかりの恵みです。このように神を「父」と呼ぶことができるのは、イエス・キリストが私たちを贖うために十字架にかかってくださり、私たちに聖霊を与えてくださったからにほかなりません。

ところで、パウロが上のローマ書の箇所で語っている、「子たる身分を授け」られるというのは、神の「養子になる」ということですが、このことについては過去記事で取り上げたことがありますので、そちらを参照してください。いずれにしても、天の父は私たちを愛し、養い、導いてくださる方であり、私たちはそのようなお方として神に対して祈るべきです。その祈りを導くのは「恐れ」ではなくて「愛」です。

もう一つ、ここで注意しなければならないのは、「我らの父」という表現です。「私の父」ではありません。私たちは祈りというと、往々にして「この私と神様との個人的な関係」という、個人主義的な理解を持ちがちです。もちろん、祈りには神と一対一で向き合う側面もありますが、主の祈りではそれとともに共同体的な視点を持って祈ることが必要であると思います。

神は教会の父でもあるお方です。私たちが神に対して「我らの父よ」と呼びかけるとき、私たちは世界中に広がる公同の教会の一員として祈っているのです。クリスチャンは教団教派に関係なく、兄弟姉妹であり、神の家族であることを忘れてはなりません。クリスチャンは「異父兄弟・異父姉妹」ではありません。同じ神を「父」と呼ぶ存在なのです。

からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。 (エペソ4章4-6節)

第2回の記事で、主の祈りをキリスト論的視点から祈ることの重要性について書きました。今回取り上げた、神による創造と救済の両方について、キリストは重要な役割を果たしておられます。キリストは神の創造の担い手でした(ヨハネ1章3節、コロサイ1章16節)。そしてもちろん、私たちが救われ神の子とされる特権が与えられたのは、このキリストを通してでした(ヨハネ1章12節)。そして教会はキリストのからだです(1コリント12章27節)。私たちが主の祈りを祈る時、私たちはキリストを通して造られ、キリストによって贖われ、キリストを頭として一つにされている存在として、父なる神に祈るのです。

(続く)