「主の祈り」を祈る(1)

 

Lords Prayer

このところ、主の祈りについていろいろなことを考えさせられ、また個人的な祈りにおいても祈ることが多くなっています。このあまりにも有名な祈りについてはすでに多くの方々が語っておられますし、自分の乏しい祈りの生活から語るのもおこがましい気がしますが、少しでも誰かの助けになればと思い、何回かにお分かちさせていただきます。今回は導入として、祈り全般について最近思うことについて書きたいと思います。

私がクリスチャン生活を送ってきた教会のほとんどは、祈りと言えば自由祈祷が一般的で、それ以外の祈りをする機会はほとんどありませんでした。私自身も、「紙に印刷された文句を唱えるのは本当の祈りではない。その時その時に、自分のことばで、自分の思いを、聖霊に導かれるままに祈るのでなければ・・・」という考えがありました。けれども近年、定型文による祈りの素晴らしさについて考えるようになりました。これは「あれかこれか」の二者択一の問題ではなく、どちらもそれぞれに素晴らしい点があると思います。

決められたテキストに従って祈る祈りの利点はいくつかあります。まず、祈祷書などで広く用いられている祈りを祈ることは、教会に属する者として祈ることを意味します。これは後から述べていくように、祈りの共同体的性質を考える時にとても重要な側面であると思います。私たちは個人として神と向き合う祈りも必要ですが、他のクリスチャンとの霊的一致の中で祈ることも忘れてはならないと思います。

もう一つの利点は、定型文を使うことによって、自分の力では祈れない時にも祈ることができる、ということです。どんなクリスチャンでも気分がひどく落ち込んで祈る気分になれない時はあるものです。そんな時に、定型文の祈りを祈ることは大きな助けになります。実際にやってみないとなかなか分からないことですが、これは単なる紙の上の文字を機械的に発音する以上の力がある祈りです。Kathryn Greene-McCreightは、クリスチャンとして精神疾患について考えた良書Darkness Is My Only Companionの中で、自身がうつ状態に苦しんでいた時に、祈祷書をはじめとする定型文を使った祈りにどれだけ助けられたかを述べています。

ハートレイ・コールリッジ(英国の詩人)、ヘブライ人たち、ダビデ王よ―あなたたちが祈ってくれたことがとても嬉しい。私は祈れないから。私はあなたたちの祈りを祈り、あなたたちの信仰に依りたのもう。私自身には何もないから。

つまり、自分自身には祈るだけの力も信仰もない時、私たちは他のクリスチャンの信仰に支えられるようにして、彼らの祈りを自分の祈りとして祈ることができるのです。

最後に、定型文を使った祈りには、自分では到底思いつかないような祈りをすることができる、という利点があります。 自由祈祷の潜在的な短所は、「自分の心の思い」だけに頼って祈っていると、自分の願いや先入観、神学などに引きずられた祈りに偏ってしまう可能性があることです。人が日々祈る方法や内容にはその人の霊性や人格が如実に表れるものです。たとえば狭い自己中心的な信仰しかもっていない人は、自分の祝福を願い求めるだけの祈りになりがちです。You are what you pray.

けれども、祈りの目的の一つは聖書的な世界観、価値観、思考方法、行動様式、ライフスタイルを体得していくことにあると思います。私たちが神のみこころに沿った祈りをすることによって、神の国の世界観や価値観が私たちの内側に染みこんできて、私たちの思いが変えられ(ローマ12:2)、行動が変えられていきます(ローマ12:1)。つまり私たちは自分が祈るとおりの存在になっていくのです。You will become what you pray.

さて、それではどのような種類の祈りを用いていったら良いのでしょうか?祈祷書などを使うことも有効ですが、そのような習慣になじみのないクリスチャンにとっては、聖書の言葉にそって祈ることから始めるのが良いと思います。詩篇などは祈りの宝庫とも言えます。このブログでも、たとえば黙示録の聖句にもとづいて祈る祈りを紹介したことがあります(「天の玉座の間の祈り」)。しかし、おそらくすべてのクリスチャンにとって最も良い出発点は、イエスが弟子たちに教えられた「主の祈り」を祈ることでしょう。次回からは実際に主の祈りをどのように祈っていくことができるか、考えてみたいと思います。

(続く)