N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(7)

(シリーズ過去記事      

ライトは第3部の13章「神の霊感による書」と14章「物語と務め」で、聖書が語り、私たちが生きている神の物語において、聖書自体がどのような役割を果たしているのかを論じています。

ライトによると、聖書もまた、天と地が重なり、かみ合う接点の一つであり、聖書の「霊感」もこのような視点で捉えられると言います。聖書は神の啓示そのものですが、それは単なる「真なる情報の伝達」ではありません。ライトは、聖書が与えられた中心的な目的は、正しい教理を教えることではなく(それも大切ですが)、神の民がこの地においてその務めを果たすエネルギーを提供することだと言います。その意味でライトは、「無謬性」や「無誤性」に関わる議論はそれほど重視しません(259ページ)。ライトによると、聖書の権威とは、まさにこのような、神がご自分の民を用いてこの世で為そうとされている働きという観点から考えなければならないのであって、「『聖書の権威に生きる』とは、その物語の語っている世界に生きることを意味する」(264ページ)のです。

従来の福音派プロテスタントの理解では、「聖書の権威に従って生きる」とは、「聖書に含まれる真なる命題を信じ、それに従って生きる」というかたちで理解されることが多かったように思います。そこでは、聖書の解釈と適用は通常次のような手順で行われます:

1.聖書テキストがオリジナルの歴史的文脈で伝えようとしたメッセージを復元する(釈義)
2.釈義の結果から、オリジナルの歴史的・文化的要素を取り除き、時代や文化を超えて通用する普遍的な原則を抽出する
3.2.で取り出した原則を、現代のコンテクストにあてはめる(適用)

このようなアプローチの有効性を否定するつもりはありませんし、私自身神学校でも教えています。けれども、このようなアプローチには一つの大きな限界があると思います。それは、聖書のメッセージを、時代や文化によって変わることのない永遠の真理(timeless truth)を表す命題に還元してしまおうとする態度です。たしかにこのアプローチは、聖書の教えをさまざまな時代や文化に生きる人々に幅広く適用することができるという利点がありますが、逆に、救済史の中の特定の時点に生きている私たちがどう歩むべきかということについて、非常に一般化された指針しか与えられないという欠点があると思います。

聖書をナラティヴとして読み、適用するという立場では、上で述べたような命題的アプローチの有効性を否定することなく、それにとらわれない柔軟なアプローチをすることができると思います。こちらの過去記事にも書きましたが、ライトは聖書を五幕からなる未完の劇の脚本にたとえています。その記事から関連する部分を引用します:

このような救済史的な聖書解釈のアプローチは多くの人々によって採用されていますが、おそらく最も有名なのは近年日本でも名を知られるようになってきたN・T・ライトのものではないかと思います。彼は聖書全体のナラティヴ(物語)を五幕ものの未完の劇にたとえています。最初の四幕は1. 創造、2. 堕落、3. イスラエル、4. イエス・キリストであり、劇の脚本(聖書)は、ここまでの部分と、最終幕の最初の部分(初代教会)だけが完成しており、あとは結末(終末)のラフスケッチのみが残されている、と考えます。

さて、ライトによると現代の私たちはこの初代教会と終末の間の部分を演じる役者として舞台に立っています。ところが私たちの演じるべき部分の脚本は未完であるため、私たちはこれまでの劇のストーリー展開とその終わり方を熟知した上で、今の場面にふさわしい演技を即興improvisationで演じていかなければならない、と言います。従って、即興とは(ジャズの即興演奏がそうであるように)あらかじめどのように行うかは一通りに決められているわけではありませんが、だからといって単なるでたらめではありません。ライトは、現代の私たちはこのようにして聖書を読み適用すべきだ、というのです。

クリスチャンであるとは、聖書の教えに従って生きることですが、「聖書の教えに従って生きる」とは、単に普遍的な宗教的・道徳的原則を信じ適用するということではなく、「現在進行中の聖書の物語を神に導かれて生きる」ことだといえます。

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『クリスチャンであるとは』について何回かにわたって書いてきましたが、今回で最終回にしたいと思います。最初に書きましたように、本書で取り扱われているすべての重要な主題を網羅したわけではありませんが、ごくおおまかな内容は紹介することができたのではないかと思います。ライトの主張に同意するか否かにかかわらず、本書を読まれた方が、新たな興味と関心をもって聖書を紐解かれるだけでなく、聖書にある壮大な神のドラマに身を投じて生きるようになることを願っていますが、それはまた著者ライトの願いでもあると信じます。

(終わり)