関野祐二先生によるゲスト連載の第3回です。お忙しい中寄稿してくださる先生に心から感謝します。それでは、お楽しみください。
「『福音』とは何か」の三回目、だいぶ間が空いてしまいましたが、「福音と被造物統治/管理」の続きです。
2011年3月11日に発生した東日本大震災、関連する福島第一原発の事故は、キリスト教界にも多くの課題を突きつけました。折しもそれは、2010年10月、第3回ローザンヌ世界宣教会議が南アフリカのケープタウンで開催され、その成果である「ケープタウン決意表明(コミットメント)」が宣言されて五ヵ月後のこと。本コミットメントでは、包括的(ホリスティックな)宣教、包括的福音理解が提示され、天地創造から新天新地に至る、全被造物を対象とした神の贖い(和解と回復と再統合)計画を「神の宣教」と位置づけて、キリストを王なる主権者としたキリスト者がその統合的宣教に参与する見取り図を得たのでした。ならば福音主義に立つ者たちは当然のことながら、震災と原発事故による諸課題のキリスト教的理解も、このコミットメントの文脈に即して考えるべきものと言えましょう。投げかけられた具体的諸課題を思いつくまま並べるなら、自然災害は神のさばきなのか、いわゆる神義論の問題、福音的聖書的自然理解と環境問題、被造物を支配せよとの文化命令の意味、被災者救援と伝道の関係性と優先順位、包括的宣教と包括的福音の中身、聖書から見た核技術と原発の是非などなど。本来ならこうした課題は福音派キリスト教界がとっくに取り組んでおくべきものだったはずですが、どちらかというと後回しにしてきた苦手な分野だったようで、震災と原発事故を契機に、自戒を込めて遅ればせながら正面から取り扱うことになった経緯があります。
さて、包括的福音理解に基づく包括的宣教を深める上で鍵となる出発点は、我々福音に生きる者が文化命令(創世記1:28)に基づき統治/管理を命じられている「自然」(Nature)です。よって最初になすべきは、「キリスト教的自然理解」、すなわち我々が生き、そこに置かれている宇宙をも含めた自然界を神がどのようなものとして創造し治めているのか、その自然を支配するよう委託された「神のかたち」としての人間のあり方、そして贖いの対象でもある自然を、同じく贖いの対象である我々人間がどのように理解し、管理したらいいのかという問いかけに帰結します(人間が宇宙を統治/管理するとはいかなる意味合いを持つのかは、天文がライフワークの筆者にとっても興味深いテーマです)。主なる神は、被造物全体が贖われる新天新地への回復のプロセスにおいて、我々人間を「贖われた統治者」と位置づけ、ご摂理の内に用いておられます。換言するならこれは、主イエスの十字架と復活によって成し遂げられた、人類における被造物統治/管理権の回復であり、この地上におけるキリスト者の使命に直結するものです。被造物を治めるためにはそれらを理解し、各分野における最新の学問的成果と歴史的文化的価値を評価する必要がありますから、聖書以外のあらゆる領域にも関心を持ち、各分野の専門家たちの意見も取り入れ、協力していかなければなりません。
あらためて、創世記1:28を引用しましょう。「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ』」。この「地を従えよ」「支配せよ」というみことばをめぐっては、これこそが今日の環境破壊を引き起こした元凶であり、キリスト教は自然界に対し罪の責任を負っているとの、リン・ホワイトによる有名な指摘があります。しかしこのみことばには確かに神から委託された統治・支配の意味があるものの、決してそれは上からの横暴なわざでなく、神との共同(協働)統治であり、統治支配のニュアンスを含んだ管理という意味で、統治/管理との複合的表現がふさわしく、リン・ホワイトの理解は一面的と思われます。
エデンの園におけるアダムとエバの堕落の結果、人間と自然との関係性に起きた問題点とは、ひとつには人間が原初において完全であった「神のかたち」ではなくなり、本来的に統治支配権を行使した被造物支配の責任が与えられてはいても、今や正しく支配することが出来なくなってしまったこと、もうひとつは、「非常に良かった」(創世記1:31)はずの被造物世界全体に「ある変化」が生じ、土地はのろわれ(3:18)、いばらとあざみが生え、被造物は虚無に服した(ローマ8:20)ことでした。人間の堕落ゆえ虚無に服した被造物は、我々自身の身体も含め、うめきつつ贖われる日を待ち望んでいます(ローマ8:19-23)。贖われるとは、今の不完全な状態が人間の罪による滅びの束縛から解放され、元の完全な姿へと買い戻され回復させられるということでしょう。それは、先の後藤敏夫先生による解説の通り、詳細は不明ですが、新天新地の完成が今の被造世界となんらかの連続性や関連性を持っていることを暗示します。つまり、今の被造世界がすべて失われ滅びた後に、今とは断絶した形で全く新しい新天新地が現れるとの従来型理解は、聖書本来のメッセージとはいいがたいのです。
ということは、現在の地上におけるあらゆる営みが永遠の御国と連続性を持ち、地上での忠実な働きがなんらかの意味で完成された未来の御国へと持ち込まれることを意味し、今のこの地上における社会的活動すべては、神の目に意義あるものと認められており、委ねられた働きへの忠実さ誠実さが問われているということになります。そうでなければ、この世の生活はキリスト者にとってかりそめの意味しか持たなくなり、悪い意味で御国の待合室と化してしまうでしょう。
したがって私たちはここに、「身体の贖い(復活)を待ち望みつつ、神のかたちとして被造世界を統治/管理しながら、被造世界の贖いをも待ち望む」という、地上における生の枠組みと意義付けを確認できることになります。しかしその一方で、(1)アダムの罪により堕落して、正しい意味での統治/管理者としての資格や能力を失った我々に、堕落前(創世記1:28)定められたこの世を治める委託業務行使の資格や力はあるのか。(2)創造の当初、我々人間に委ねられていた被造物世界の統治/管理のわざは、神への反逆と堕落とともに我らの手から取り上げられ、主ご自身の直接統治へと戻されたのではないのか。(3)そこにあえて文化を築き、バベルの塔を建設した人類に、主にある健全な地の管理や文化形成は不可能なのではないか。(4)主イエスの十字架と復活による贖いのわざは、我々のこの世に対する統治/管理能力や権限をも回復したのだろうか。 こうした疑問が次々と沸き起こってきます。これはアウグスティヌスとペラギウスの論争以来常に議論されてきた、原罪による神のかたちの破壊や歪みの問題、自由意志能力の有効性、および神の主権と人間の自由意志の関係性も含めた、根本的問いかけと言えましょう。
筆者は、主イエスの十字架と復活による贖いのみわざが、人間の被造物統治/管理能力をも回復させ、神は再度そのわざを人類に委託して、贖いの歴史進展の中で人間との共同(協働)統治を進めていると理解しています。この結論については今後も幅広い継続的議論が必要ですが、福音を「個人的霊的救い」から解き放ち、自然科学を含むこの世一般の学問や文化活動の価値を認めた上で理解を深め、主イエスの十字架と復活によって神の国の統治者/管理者に召し出されたキリスト者こそが、地の贖いの完成を目指してこの地上の統治/管理を神との協働によって推し進めて行く、という基本的道筋は妥当な見解と思われます。であれば、「福音」とは、「十字架による罪からの救いと天国行きの保証」という単純化された表現では収まりきれない、キリスト教的自然観と世界観、贖い理解に基づくきわめて広い包括概念となるでしょう。
(続く)