御国を来たらせたまえ(9)

(本シリーズの過去記事        

神の国についてとりとめもなく書いてきたこのシリーズですが、今回でとりあえず最後にしたいと思います。最後に取り上げるのはヨハネの黙示録です。

「御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」という主の祈りの一節に表されているような終末的希望、つまり神の王としての支配が天においてだけでなく、地においても実現するようにというビジョンは、ヨハネ黙示録の中心的なテーマと言っていいと思います。

黙示録の描き出す神学的世界は、「天と地」という空間的座標軸と、「今の世と来るべき世」という時間的座標軸によってとらえることができます。「」は神の御座のあるところであり、そこでは神の栄光が充ち満ちていて、神の支配が完全に行き渡っているところです(4章参照)。これに対して「」は悪の力が猛威をふるっており、いまだ神の主権的支配が完全に現れていない領域として描かれています(たとえば13章)。ヨハネと仲間のクリスチャンたちは、そのような地上において神を信じ従う存在として、大きな苦難の中にある存在として位置づけられています。ヨハネが本書を書いたのは、流刑先であるパトモス島において復活のキリストからの幻を受けたことがきっかけでした。

しかし、そのような地上の状態はあくまでも「今の世」におけるものであって、いつまでもそうではない、というのが黙示録のメッセージです。将来の「来るべき世」においては、現在は天においてのみ完全に表されている神の王なる支配(=神の国)が地においても完全に実現される時が来る。これが黙示録の希望であり、確信なのです。N・T・ライト風に言えば、「天と地が一つになり、神の未来が現在を訪れる」というビジョンです。

このことは、黙示録における神の呼び名によく表されています。

今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。(1章8節)

ここで使われている「今いまし、昔いまし、やがて来るべき者」という表現は、黙示録に何度も登場します(1章4節、4章8節)。この呼び名は、出エジプト記3章14節に出てくる「わたしは、有って有る者」という神の呼称を思わせます。神は永遠の存在であり、過去も現在も未来も支配されるお方です。神はこれまでの歴史も導かれたし、現在の状況もコントロールしておられ、未来もその御手の中にあります。似たような神の形容は他の宗教にもありました。たとえばヘレニズム宗教においてゼウスは「昔いまし、今いまし、後にいます方who was and who is and who will be」と呼ばれていました。ところがヨハネは「後にいます」というところを「やがて来たるべき」と言い換えています。これは、聖書の神がただ人間の歴史とは無関係に永遠に存在する神(哲学者の神)ではなく、人間の歴史に自ら介入される方であることを表しています。けれども、ヨハネが生きている「今の世」においては、神はまだ地上を訪れておらず、教会は将来起こるその訪れを待ち望んでいるのです。

けれども、ヨハネが見た「これから後に起るべきこと」(4章1節)の幻の中では、この神表現に変化が見られるのです。

今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します。」(11章17節)

それから、水をつかさどる御使がこう言うのを、聞いた、「今いまし、昔いませる聖なる者よ。このようにお定めになったあなたは、正しいかたであります。」(16章5節)

これらの箇所では、「今いまし、昔いませる」の部分は同じですが「後に来られる」という部分がありません。なぜでしょうか?6章以降に描かれているのは、地上の悪に対する神の最終的なさばきです。これについてリチャード・ボウカムはこう言っています。

幻では、これらの時点で神の終末論的到来が起こりつつある。これはもはや未来のことではない。そして、その呼称を用いる賛歌はこの、神の目的の終末論的成就の出現を讃える。(『ヨハネ黙示録の神学』39ページ)

すなわち黙示録のナラティヴのこの時点では、神の到来はもはや未来のことではなく、すでに開始された地上の現実となっているのです。

神が地上を訪れるというのは、神が王としての支配を確立されることです。

第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起って言った、「この世の国basileiaは、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろうbasileusei」。(11章15節)

ここで「この世の国」と訳されている部分の「国」は何度も出てきた「王国」「王としての支配」を表すbasileiaというギリシア語が使われています。興味深いことにここでは単数形が使われており、世界にある国々は、神に敵対する単一の「王国basileia」としてとらえられていることが分かります。神は世の終わりに地上の歴史に決定的な介入を行われ、その王国をご自分のものとして掌握されるのです。そして神が開始する王としての支配は永遠に続くものです。「支配なさるであろう」と訳されているのは、basileiaから派生した動詞basileuōの未来形が使われています。この世の国は神の国となり、その国は永遠に続くのです。

最後に、世の終わりに到来する神の国と教会とはどのような関係にあるのかを考えてみたいと思います。5章の天の御座の幻の中で、キリストの贖罪のみわざを讃える賛美の中で、天使たちは次のように歌います。

9  彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、10  わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょうbasileusousin」。(5章9-10節)

ここで、キリストによって贖われた人々は、地上を「支配するに至るでしょう」と書かれていますが、ここでも上に出てきた動詞basileuōの未来形が使われています(ただしここでは複数形)。さらに同じ動詞の形が、ヨハネの見た幻の最後の部分にも登場します。

夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配するbasileusousin。(22章5節)

つまり、黙示録には、世の終わりに神ご自身が王として支配するだけでなく、神の民である教会もまた王として支配すると書かれているのです。これはつまり、神の王としての支配の働きにクリスチャンが参加させていただくことを意味しています。

「御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」この祈りは、教会が地上に訪れる神の支配の単なる受け手となるだけでなく、やがておとずれる新しい世界の共同統治者としていただく時に、最終的に成就するのです。