前回の記事では、ルカ福音書の最初の3章において、作者はナラティヴの重要な節目ごとに3つの年代的記述を挿入していることを見ました。それらの年代記述は次第に複雑さとスケールを増してきており、3章冒頭の記述がクライマックスを形成しています。3章でルカはイエスの宣教の始めを包括的な歴史的文脈の中でとらえています。ルカが見ている世界は、ローマもユダヤも、また政治も宗教も渾然一体となった複雑な構造を持っており、その頂点にはローマ皇帝がいました。そのような背景の中で主イエスの福音宣教はなされていったのです。
しかし、これらの支配者たちは単に福音書の物語の歴史的な背景を明らかにするためだけに登場するのではなく、ルカのナラティヴの中でもっと重要な役割を果たしています。それはどのようなものでしょうか?それを解く鍵は次の4章に隠されています。
福音書には、イエスが宣教を開始したとき、ヨハネから受洗後、荒野で悪魔の誘惑を受けたことが書かれています。その時に3つの誘惑があったことをマタイとルカがしるしています(マタイ4章1-11節、ルカ4章1-13節)。マタイとルカの福音書では3つの誘惑の順序が少し違っていますが、ルカによる福音書では2番目に次のような誘惑が出てきます。
5 それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界oikoumenēのすべての国々を見せて 6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。 7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。 8 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。 (ルカ4章5-8節)
5節に出てくる「世界oikoumenē」は2章1節でも、皇帝アウグスト支配する領域をさす言葉として使われています。ここでサタンは、全世界の国々の権力と栄光が自分にゆだねられていると豪語しているのです。
ここでサタンが嘘をついているのではないと考える理由がいくつかあります。第一に、イエスはこの発言を否定していません。もしサタンが口からでまかせを言っていたのであれば、それに対してイエスはその偽りを指摘するだけでよかったでしょう。しかし、イエスはそのようにはされず、礼拝すべき方は神おひとりであるという、申命記の聖句を用いて、自分を拝ませようとするサタンの誘惑をしりぞけたのです。このことは、イエスもサタンが何らかの形で世界を支配しているという主張については認めていたことを示しています。また、使徒行伝26章18節では、イエスからパウロに語られた言葉として、彼の宣教の働きが「悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ」ることであると語られていることから、サタンがこの世の国々を現実に支配しているとルカが信じていたことが分かります。(ただし、ルカ4章6節でサタンはこれらの権威が自分に「任せられて」いると語っており、その権威は究極的には神に由来していることを暗黙裏に示しています。)
旧約聖書のダニエル書10章では、ペルシアやギリシアといった特定の国を支配する霊的存在が登場しますが、ここではサタンは全世界のすべての国々を支配する存在として描かれているのです。そして、このようにサタンが支配する「全世界の国々」にはローマ帝国もふくまれることは明らかです。したがって、サタンはローマ皇帝をも支配する、この世の真の支配者と考えることができます。
つまり、ルカ4章の荒野の誘惑記事は、そこに至る3章のナラティヴに対する重要な注解の役割を果たしているのです。荒野の誘惑の記事を、3章までで提示された年代記述と照らし合わせて読むとき、ひとつの重大なポイントが浮かび上がってきます。1-3章でルカは、皇帝を頂点として、ローマ人やユダヤ人を含み、またユダヤの宗教組織をも取り込んだこの世の政治体制を描いてきました。しかし、4章においてはじめて、ルカはこの世の権力の背後には霊的な存在がいることを明らかにするのです。ルカにとって、この世の真の支配者はローマ皇帝ではありません。皇帝の上にあってすべてを支配しているのは、サタン自身なのです。サタンは自分に委ねられた権威を好きな者に与えることができると語ります(4章7節)。これは配下の悪霊に権威を与えているとも考えられますが、同時にローマ皇帝の権威はサタンから与えられたものであると考えることもできます。
ルカにとって、この地上の政治権力と、その背後に存在する霊的影響力とは切り離すことができません。ルカのホリスティックな世界観においては、現代人のように地上的・歴史的できごとと、霊的・宗教的できごとがはっきりと区別されているのではなく、お互いに影響を及ぼしあっているのです。ルカ4章5節に出てくる「世界のすべての国々」という表現では、神の「国」やルカ11章18節でサタンの「国」という時に使われているのと同じbasileiaというギリシア語(この場合は複数形)が使われています。つまり、ローマ帝国を含むこの世のすべての国々basileia(複数)はサタンの国basileia(単数)の支配下に置かれているのです。
ルカにとって、イエスが神の国の到来を告げ知らせたこの地上世界は、このように地上の複雑な政治的権力構造を含みこんだ、サタンの王国であったのです。サタンがこの地上世界を支配しているという認識は、他の新約記者にも見ることができます(ヨハネ12章31節、1ヨハネ5章19節など)。サタンの国に神の国が侵攻してくる時、当然そこには衝突が起こってきます。神の国の到来は、宇宙規模の闘争でもあるのです。
なお、このテーマについてさらに詳しく知りたい方は、拙著The Roman Empire in Luke’s Narrativeを参照してください。
(続く)