御国を来たらせたまえ(6)

(シリーズ過去記事     

神の国についてのシリーズの中で、過去2回にわたって「携挙」の概念について書いてきました。

なぜ「携挙」の概念がこれほど人気があるのでしょうか?それは一つには、これまで論じてきたような、ギリシア的霊肉二元論に基づく通俗的天国観があると思います。つまり、クリスチャンの最終的希望は、滅び行く地上世界を離れ去って、霊的な楽園としての「天国」で神と永遠に過ごすことだという考えです。もちろん、1テサロニケ4章16-17節でパウロは携挙について語っていると信じるならば、その時には同時に死者の復活も起こることも認めなければなりませんので(16節「その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、」)、これは厳密には「死後霊魂が肉体を離れて天国に行く」というものとは異なります。しかし、地上の悪の世界から脱出して神のおられる「天国」に入る、という天国観は、「携挙」の考えと非常になじみやすいということは言えます。このような現世逃避的な思想(「悲観的終末論」と言ってもいいかもしれません)は、携挙によって教会は終末の患難期を経験することがない、という考え方に典型的に表れています。

「携挙」が広く信じられているもう一つの理由は、聖書の中には天に挙げられた人々の記述があるからだと思います。それはエノク(創世記5章24節)、エリヤ(2列王記2章11節)、そしてもちろんイエス(ルカ24章50-51節、使徒1章9節)の昇天記事です。これらの人々は、地上から神の住む領域である天へと移されました。これらの記述から、「神に祝福された人々は最終的に地上から天に挙げられる」という「原則」を人々が見いだしたとしても不思議ではありません。しかし、これは真理の半分しかとらえていない理解です。

確かにこれらの昇天記事は、神の住まわれる領域すなわち「天」に移されること、つまり神とともに生きるいのちの祝福を表していると言えます。しかし、聖書の語る最終的な終末のビジョンは、神ご自身が地上に降りてきて人とともに住み、天と地が神の普遍的な支配の下で一つになるということです。

1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。2  また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。3  また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、4  人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。(黙示録21章1-4節)

終末に起こる、再臨のキリストとの出会いはそのような聖書ナラティヴの全体的なストーリーラインの中でとらえなければなりません。そのように考える時、パウロがキリスト者は「いつも主と共にいる」と言ったときに彼が語っているのは、地上に降りてきた新しいエルサレムにおけるキリストとの生活を意味していると考える十分な根拠があります。

このことは、聖書の読み方についても多くの示唆を与えてくれます。私たちが聖書に書かれている断片的事例から普遍的な原則を導き出そうとするとき、聖書に繰り返し出てくるできごとが、永遠に繰り返される固定されたパターンであるかのように誤解してしまうことがあります。たとえばある人々は次のように考えるかもしれません。

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しかし、聖書は歴史と関わりのない普遍的な命題的真理の単なるコレクションではなく、首尾一貫したストーリーラインを持つ一つの物語(ナラティヴ)です。物語においては話がどのような展開を経てどういう結末にいたるかが重要であり、同じようなできごとがただ繰り返されていくのではありません。物語の各部分はそのようなストーリーラインの枠組みと、その部分が全体の中でどういう位置を占めているかに照らして解釈されなければならないのです。したがって、聖書の昇天物語に見られるテーマ(神とともに生きるいのちへの移行)はかならずしも「地上から天に引きあげられる」という固定された物理的移動によっていつも表現されるわけではなく、同じテーマが終末における救済史の新しい展開(天における神の支配が地にも現される。言い換えれば天と地が一つになる)においては、新しい形態を取る(神の民が再臨の主を地上に迎え入れる)ということも十分にあり得るわけです。

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このように、「携挙」の問題を考えるときにも、聖書の全体像をどう把握するかが重要であることが分かります。そして、最終的に最も説得力のある解釈は、聖書全体のストーリーラインにもっともよく適合する解釈なのです。

(続く)