前回に引き続き、「携挙」について考えます。携挙の聖書的根拠として取り上げられるもう一つの箇所は、マタイ福音書の次の箇所です。
37 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 38 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 39 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。 40 そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。 41 ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。 42 だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。(マタイ24章37-42節)
二人の人物が一緒にいるときに、一人が取られ、一人が残されるという印象的なイメージは、ルカ福音書17章にも並行箇所がありますが、ここで問題になるのが、「取られる」「残される」というのがそれぞれ何を指しているのか、ということです。この二つはどちらか一方がさばきを、他方が救いを表していると考えられますが、どちらがどちらなのかははっきりしません。
携挙を支持する人々は、ここで「取られる」方の人物が救われるのだ、と解釈します。たとえば上の画像は18世紀末に出版された聖書の挿絵(マタイ24章40節の部分)ですが、この解釈に基づいて描かれたものといえます。31節でキリストがご自分の民を集めると書かれているのもこの解釈を支持するように思われますので、「取られる」方が救われる方であると考えることは可能です。
しかしその場合でも、この部分が必ずしも「携挙」を表しているとは言えません。まず、この箇所では「取られる」人々が天に引き上げられるということが明示されているわけではありません。天から地上に降臨したキリストが、ご自身のおられる場所にご自分の民を集めるという解釈も十分成り立ちます。またいずれにしても、この時の「再臨」は患難期前再臨説が主張するような、(そして「レフト・ビハインド」シリーズに見られるような)、世の人々が知らないうちにキリストが密かに来臨し、クリスチャンが取り去られるというものではありません。30節には、「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。 」とあるからです。
さらに、この箇所は「取られる」方が裁きを受ける方であると解釈することも可能です。この箇所でイエスは終末に起こる、救われる者と裁かれる者との分離をノアの洪水にたとえていますが、39節では「そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。」と書かれています。明らかに、ここで洪水にさらわれていくのは裁きを受けておぼれ死んだ人々です。
したがって、世の終わりには一部の人々が取り去られ、一部が残されるというイエスの表現だけでは、携挙の根拠とするには不十分といえます。
続いて、ヨハネ福音書に目を転じましょう。受難前夜の弟子たちに対する長い説話の中で、イエスはこう言われました:
3 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。(ヨハネ14章2-3節)
ここも「携挙」を支持する箇所のように見えます。つまり、イエスが死と復活を通して父のみもとに帰るとき、「わたしの父の家」つまり天国で弟子たちのためのすまいを用意し、しかるべき後にこの地上に帰ってきて弟子たちを迎え、天国に連れて行ってくださる、というのです。
ここは非常に難しい箇所で、いろいろな解釈が提示されていますが、イエスがこの箇所で「わたしの父の家」に弟子たちのためのすまいを用意し、そこに弟子たちを導くために迎えに来ると言われているのは確かです。しかし、「わたしの父の家」とは何を指しているのでしょうか?ヨハネ福音書では、この表現は神殿を指しています(2章16節)ので、14章で語られる「わたしの父の家」も神殿と考えることができます。ただし、世の終わりにイエスが弟子たちを導き入れるという神殿は、もちろんエルサレムにある人の手で造られた神殿のことではなく、天から下ってくる新しいエルサレムであると考えられます(黙示録21章2節)。新エルサレムは都全体が神殿であると語られているからです(同22節)。つまり、ここでイエスが弟子たちに語っているのは、世の終わりには彼らはイエスとともに終末的神殿である新しいエルサレムでいつまでも住むことができる、ということです。このように考えれば、この箇所も聖書全体の方向性である「天から地へ」という枠組みの中で考えることができます。
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今回取り上げた聖書箇所は、どれも解釈の幅のある箇所であり、携挙を支持するとも支持しないとも解釈することのできる、難解な部分です。上で示した解釈は、いくつかある解釈の一つの選択肢に過ぎません。しかし、だから「何でもあり」ということではなく、どの解釈がより説得力があるのか、を考えなければなりません。このような場合に大切なことは、聖書の示す大きな物語のストーリーラインに沿ってその箇所を理解することです。
個人的にはクリスチャンが再臨時に空中でキリストと出会い、そのまま天に引き上げられていくという「携挙」は聖書的根拠に乏しいと考えています。それは、これまでとり上げたいくつかの個所の釈義的可能性に基づくだけでなく、「天から地へ」という聖書の終末論全体を貫く方向性と逆行しているように思えるからです。つまり、世の終わりにクリスチャンが天に引き上げられるという解釈よりも、天から降臨するイエスを地上で迎えるという解釈のほうが、聖書の物語全体の文脈により適合するということです。
次回は、携挙の問題をより大きな聖書のストーリーラインの観点からさらに深く見て行きたいと思います。
(続く)