御国を来たらせたまえ(4)

(シリーズ過去記事   

このシリーズでは、「神の国の到来」をテーマに考えてきました。主の祈りの中で「御国を来たらせたまえ」と祈るようにとイエスが弟子たちに教えられたように、キリスト者の祈りは、そして聖書が教える終末の希望は、神の国が地上に訪れることであって、私たちが「天国に行く」ということではありません。つまり、基本的に聖書が示している方向性は「天から地へ」であって、「地から天へ」ではないのです。

これに関連して、今回は多くのクリスチャンが終末に起こると考えている一つのできごとについて取り上げたいと思います。それは「携挙」と呼ばれるものです。

「携挙」と言う言葉自体は聖書には出てきません。英語のraptureという表現は、1テサロニケ4章17節のラテン語訳に出てくるrapiemur(「私たちは取り去られるであろう」)という語に由来します。「携挙」は特にキリスト教の終末論において、終末に起こるとされる患難期の始まる前にキリストが再臨して教会を天に引きあげるという立場(これを「患難期前再臨説」と言います)を取る人々が、その時に起こる出来事を指す表現として用いられます。つまり「携挙」とは、世の終わりにキリストが再臨するとき、地上に生きているクリスチャンが文字通り空中に引き上げられてキリストに出会い、そのまま天に引きあげられるできごとをさす用語です。アメリカを中心に大ヒットし、邦訳も出版された『レフトビハインド』のシリーズもこの理解に基づいており、携挙の概念は日本のキリスト教会でも多くの支持者を持っています。この記事では、携挙のタイミング(患難期との前後関係など)についての細かい議論には触れず、携挙の概念そのものについて、その聖書的根拠を探っていきたいと思います。特に問題となるのは、空中で再臨のキリストに出会った聖徒たちが、そのまま天に引きあげられるのかどうか、と言う点です。

先に進む前にあらかじめお断りしておきますが、携挙に関しては保守的なキリスト者の間でも様々な見解があり、以下に記すのはあくまでも筆者個人の理解です。「携挙」の解釈は福音理解の根幹に関わるものではなく、それに関して意見の相違があったとしても、福音主義的キリスト者としての交わりがさまたげられる必然性は何もありません

さて、「携挙」の聖書的根拠として参照されるもっとも重要な箇所は、冒頭にも挙げたパウロによるテサロニケ人への手紙の次の一節です:

17 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。  16  すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、  17  それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。(1テサロニケ4章15-17節)

特に17節の「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」では、キリストの再臨時に、地上で生きているクリスチャンが(それ以前に死んでいたけれども今や復活したクリスチャンたちと共に)空中に引きあげられて、そこでキリストと出会うことが記されています。携挙を信じる立場ではこの後クリスチャンはキリストと共に天に引きあげられるとされます。つまりこの時キリストが降りてこられるのは空中までであり、完全に地上にまで降臨するわけではありませんので、「空中再臨」と呼ばれます。

さて、このような再臨の理解ははたしてパウロが意図したものだったのでしょうか?ここで鍵となるのが17節で「会う」と訳されているギリシア語の名詞apantēsisです。古代世界では、王や皇帝のような高貴な人物がある町を訪れた時に、町の住民が城門の外まで迎えに出て、その王を町へとエスコートすることが行われました。その時に使われたことばがこのapantēsisです。たとえば2サムエル記19章25節(ギリシア語の七十人訳聖書では26節)では、エルサレムに帰還したダビデ王をメフィボシェテが迎えに出たことが書かれていますが、そこでもapantēsisが使われています。使徒28章15節でも、パウロがローマの近くまで来たとき、ローマのクリスチャンたちがパウロを出迎えた(apantēsis)ことが書かれていますが、文脈からして当然彼らはパウロを伴ってローマに帰ったことと思われます。もしかしたらここには、世界の、したがってローマ帝国の真の王なるイエスの使節として、パウロを首都に迎え入れるというイメージがあるのかもしれません。使徒行伝のナラティヴは、パウロが帝都ローマにおいて「はばからず、また妨げられることもなく、神の国(=王としての支配)を宣べ伝え、イエス・キリストのことを教えつづけた。」(28章31節)という記述で終わっています。

さて、1テサロニケ4章でパウロが再臨のキリストを地上を訪れる天の王として描いていることは、ダニエル7章13-14節を思わせる雲のイメージを使用していることや、ローマ皇帝にも使われた「主kyrios」という称号を使用していることなどからも明らかです。そうであるならば、パウロがここで示唆していることは、王であるキリストが天から地上に降りてこられる時に、その「臣下」であるキリスト者が空中まで迎えに出て、その後主とともに地上に降りてくることであると考えられます。黙示録21章にも書かれているように、私たちの最終的な状態は地上で父なる神およびキリストとともに住むことですが、上のように考えると、17節の「こうして、いつも主と共にいるであろう。」も理解しやすくなります。

ここでパウロが使っている表現は黙示的言語を使った象徴表現であって、文字通り起こるできごとではないと考える立場もあります。たとえば、米国福音派の新約聖書学者George Eldon Laddは次のように言います:

生きている信者が復活の直後に空中で主と出会うために「携え挙げられる」というのは、生きている者がこの世の物理的な秩序に属する弱く朽ちるべき肉体から、来るべき世の新しい秩序に属する力強い朽ちない肉体へと突然変えられることを生き生きと描く、パウロの表現法である。 (A Theology of the New Testament, rev. ed., pp. 610-611)

しかし、象徴的であれ字義通りであれ、キリストの再臨時に起こることは、キリスト者が天国に移住することではなく、世界の主として天から降ってこられる王なるキリストを地上に迎えることなのです

携挙についてはさらに次回も考えてみたいと思います。

(続く)