「福音」とは何か(関野祐二師ゲスト投稿 その2)

関野祐二先生による、「『福音』とは何か」ゲスト投稿、第2回をお送りします。(その1はこちら

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 「『福音』とは何か」というテーマ、次は「福音と被造物統治/管理」のお話をしましょう。ここには、終末論、職業観、罪の影響、文化命令、自然観、救済論と贖罪の意味合いなど、多くの要素が複雑に絡み合っています。

筆者が新生した大学生の頃、あちこち参加したバイブルキャンプの分科会三大テーマはご他聞にもれず、働く意味と職業選択、人生の意味と目的、そして恋愛と結婚でした。最初に挙げた職業観ですが、多少の誇張と単純化を許していただくなら、「会社には伝道に行くのだ」という考え方が主流だったと記憶しています。この世の仕事には「神の栄光を現す」という意義はあってもそれ以上の聖書的意味付けをせず、むしろ職場という、教職者では入りにくい社会の現場に遣わされ、滅び行くこの世から一人でも多くの人を福音伝道によって救い出し、天国行きの切符を手渡すことが職業人の至上命令であると叩き込まれたのです。それ自体決してすべて間違いとは言えないのですが、与えられた仕事を忠実に果たす動機付けとしてはいかにも弱く、どこかこの世と正面から向き合っていない、それゆえ仕事にも身が入りにくい、かりそめの職業観と思えるものでした。ベースには、人生の軸足を滅び行く今のこの世ではなく未来の完成された輝かしい御国に置く、「悲観的終末論」(今のこの世はどんどん悪くなって、ついに終末と再臨に至り、千年王国が訪れるという考え方)があると後で知った次第です。どうせ滅びてしまうこの世の事象に全力を投入するよりも、永遠のいのちを与える伝道にこそ価値がある...勤務した会社の製品開発実験室で、証しと個人伝道にいそしんだのは懐かしい思い出ですが、どこか「これでいいのかな」との迷いがあったのも事実。全力で仕事に取り組む一方、「どうせこの世は...」と上から目線でさばくような自己矛盾の姿勢がそこにはあったからです。

こうした疑問や出来事に向かい合う、いくつかの機会が与えられてきました。ざっと挙げれば、ライフワークとしての天文学の継続、後藤敏夫師の著書との出会い、東日本大震災と原発事故、中澤啓介師の被造物管理の神学などです。

実は昨晩も、神学校の屋上で神学生たちに望遠鏡で土星を見せたのですが、輪を持った土星の堂々たる姿を自分の目で直接見てもらうのは嬉しいことでした。同席したP教師は、「土星を観るより、望遠鏡を覗いている人の反応を見ているほうがおもしろい」とも。もし、何のために土星を観るのですか、と問われたら、「そこに土星があるから」「観ておもしろいから」と答えましょうか。誤解を恐れずに言うなら、少なくとも「聖書に土星のことが書いてあるから」(直接は書いてありません)でも、「天地創造のみわざを称えるため」などという高邁な動機があってでもありません。ましてや「土星を見せることで伝道や証しのきっかけをつかむため」でもないのです。それでいいと思っています。まずは自分が今そこに生きている自然や宇宙を知ること、興味を持つこと、直接それを見て美しさに感動し、宇宙の中に置かれている自分を意識することがたいせつだからです。結果としてそれが、神を知ること、自然界と宇宙を治める神を称えること、共に創造主を喜ぶこと、詩篇の作者のように「人とは何者なのでしょう」(詩篇8:4)という神学的問いへと進むことになるのでしょう。

この順序をたいせつにしたいと思っています。なぜならそれが、この地上における人の営みを肯定し、地に足をつけた生き方の出発点となるからです。先ほど述べた、「ひとりでも多くの人を救いに導く」ことを主眼とした生き方は、それ自体はすばらしいわざであっても、気をつけないと浮き足立った前のめりの歩みとなり、地上のわざを軽視する結果をもたらしかねません。自然科学のみならず、文化や芸術、先端技術、哲学や文学など、人のさまざまな営みに肯定的な意味づけを与える道があるはずですし、多くの人に主イエスを紹介しつつ、人生そのものを喜び楽しむことをも主は願っていると思うのです。福音を知り、福音に生かされ、福音を伝えるという生き方がこのように統合されるならば、どんなにすばらしいことでしょう。『ケープタウン決意表明』(いのちのことば社、2012年)45-51頁に、従来型の聖俗分離的考えを改めて人間のわざの価値を認め、真理と職場、真理とグローバルメディア、真理と宣教におけるメディア、真理と先端技術、真理と公の場という項目で、文化と専門分野の意義を提案した箇所がありますので、ご参照ください。

土星観望から少し飛躍し過ぎました。結局たいせつなのは、終末や再臨を見通した上での、この地上における営みの肯定的位置づけです。それを筆者に教えてくれたのは、後藤敏夫先生の著書「終末を生きる神の民 ――聖書の歴史観とキリスト者の社会的行動――」(いのちのことば社、初版1990年、改訂新版2007年)でした。詳しくは本を読んでいただくとして、筆者がここから一番教えられたのは、「地上における営みが新天新地へと連続している」ということ。現在の先取りされた神の国経験は決してかりそめのものではなく、それが不完全であってもやがて完成する神の国の実体の一部を構成しており、地は滅びるのではなく贖われるのだ、私たちは御国へと携挙するのではなく御国がこの地上にもたらされ、主イエスはこの地上へと再臨されるのだ、だから今の地上における営みは何らかの意味で完成された御国へと持ち込まれ、そこには連続性があるのだ、というのです。これこそが聖書的な統合された人生観につながる神学だと直感しました。ここにはもはや、神の国とこの世的なものを分ける聖俗二元論は存在しませんし、どうせこの世はという否定的な対立構造もありません。文化命令(創世記1:28)に従って地を管理するため、この世界をよく知り、かかわっていく道筋が与えられたのです。こうした枠組みを考えながら、後藤敏夫先生にも神学校で講演していただいたり、前述の書を2007年に改訂新版として再版いただいたりという歩みを続ける中、2011年の東日本大震災と原発事故を迎えることになるのです。

(続く)