御国を来たらせたまえ(3)

(シリーズ その1 その2

神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。(ルカ17章20-21節)

「その2」から間が空いてしまいましたが、神の国についてのシリーズを続けて行きたいと思います。主の祈りの中で「御国を来たらせたまえ」という祈りが重要であることについてはすでに見てきましたが、今回は神の国(神の支配)が地上に到来するとはどういう意味なのかを考えてみたいと思います。

冒頭に引用したルカ福音書のエピソードでは、パリサイ人がイエスに対して「神の国はいつ来るのか」と訊ねています。つまり、彼らの質問の主眼は、神の国の到来のタイミングに関するものでした。

ユダヤ教の終末論においては、「神の国」つまり神の支配する新しい時代は、「主の日」と呼ばれる歴史の一時点において神が劇的に地上の歴史に介入され、すべての悪を一掃して神による新秩序を打ち立てる時に訪れると考えられていました。パリサイ人たちがイエスに訊ねたのは、そのような神の歴史への介入はいつ起こるのか、ということでした。ここで彼らは、神によるそのような歴史への介入はまだ起こっていないということを暗黙の前提にしています。これはある意味当然のことでした。当時のユダヤ人にとって、悪の力(その一つの表れはローマ帝国における支配と考えられていました)はいまだに地上で猛威をふるっていたからです。同時にここでは、「神の国は一度にはっきりと目に見える形で訪れる」という考えも前提になっています。

これに対してイエスは「神の国は、見られるかたちで来るものではない。」と答えます。ここでイエスは、神の国到来のタイミングではなく、その訪れ方に主眼を置いて答えておられます。イエスは、神の国は当時のユダヤ人たちが信じていたように誰の目にも明らかな仕方で訪れるのではなく、ひそやかに訪れると語られたのです。当時の多くの人々は気づいていませんでしたが、神の国はすでに訪れ、成長を始めていました。神の国は、将来イエスが再臨して神の国が完全に現れる時まで、そのようにしてこの世の現実の中に存在しつつ、拡大していくのです。

続いてイエスは、神の国がどのような形で現在地上に存在しているのかということについて語られました。「また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。

神の国はあなたがたのただ中にある」これは有名な表現であり、そのような歌詞を持つ賛美歌もありますが、このイエスのことばは「神の国は信じる者(クリスチャン)の心の中にある」という意味ではありません。新約聖書の中で神の国が心の中の霊的現実として描かれている箇所はありません。人が「神の国に入る」と言われることはあっても(たとえばルカ18章24-25節)、神の国が人に入ると言われることはないのです。そもそもここでいう「あなたがた」は、イエスを信じないで試そうとしたパリサイ人を指していますので、「信じる者(クリスチャン)」を意味することはありえません。それどころか、彼らは悔い改めなければ、神の国から除外される危険にさらされていたのです(ルカ13章28節参照)。「神の国」つまり神の王としての支配は、単なる個人の心の中の霊的現実ではないのです。

それでは、「神の国はあなたがたのただ中にある」とはどういう意味なのでしょうか?この部分は新共同訳聖書では「あなた方の間にある」と訳されています。つまり、神の国は人々の間に既に存在し、拡大しているというのです。ここで言われているのは、イエスご自身の存在とわざにおいて、神の王なる支配が地上に現されているということです。パリサイ人たちはイエスの教えやわざを目にしていながら、その中に神の国が現れていることを悟ることができませんでした。「神の国はいつ来るのか」とイエスに質問すること自体が、彼らの霊的盲目を暴露しているのです。

そして、イエスが天に帰られてから後は、神の国の臨在を地上に現す務めは、イエスの霊を受けた弟子たち、すなわち教会に委ねられました黙示録1章6節では教会が神の王国とされたということが書かれています。神の国は個々のクリスチャンの心の中にある霊的現実ではなく、クリスチャン(とその共同体である教会)を通してこの地上に、地に住む人々の間に、社会の中に現されていく神の支配のことです。「御国を来たらせたまえ」と祈ることは、この地上の人々の間に(教会を通して)神のみこころが実現し、それによって世界が造りかえられることを求めることなのです。

ちなみに「イエス様が心の中におられる」「イエス様を心の中にお迎えする」という、クリスチャンがよく使う表現も、注意しないと誤解を招く表現です。

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イエスは肉体をもって復活した後、その肉体のまま天に昇って行かれました(ルカ24章50-53節、使徒1章9-11節)。そして現在も復活の肉体を備えたままで、父なる神の右の座に着座しておられます(使徒2章33節ほか)。そして、イエスは天に昇られたのと同じ有様で(つまり肉体をもって)やがて地上に帰ってこられます(使徒1章11節)。ですから、復活の肉体を持ったキリストがそのままでクリスチャンの心の中に住むということはありえないのです。一度復活の肉体を与えられたイエスが昇天後にその肉体を何らかの形で放棄したことを示唆する箇所は、新約聖書のどこにもありません

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フリッツ・フォン・ウーデ「キリストの昇天」

確かに、エペソ3章17節では「また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、・・・」と書かれています(実際、キリストが心に住むという表現が使われているのは新約聖書の中でここだけです)。しかし直前の節でパウロは「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように」と語っており、これはイエスの霊である聖霊が信仰者の心に住まわれることを語っていることが分かります。「キリストが心に住む」とは、クリスチャンの生き方のパターンがキリストの性質や生き方によって定義され方向づけられていくことを表しているのです。ガラテヤ2章20節「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」も同様に理解することができるでしょう。キリストは確かに聖霊という形で信仰者の内に住まわれます。けれども、キリストご自身は復活の肉体を持ったまま、天の父なる神の右に座しておられるのです。

現代のクリスチャンにとって、キリストが肉体を備えたまま天におられる姿をイメージすることがもし難しいとすれば、それは「霊的楽園」としての天国観が影響しているのかもしれません。

これらの通俗的理解(神の国やイエス・キリストがクリスチャン個人の心の中に存在する)には、現代のキリスト教が個人主義的と霊肉二元主義(後者についてはシリーズ第2回を参照)の影響をいかに強く受けているかをよく表していると思います。