「福音」とは何か(関野祐二師ゲスト投稿 その1)

前回の投稿で、次回の投稿では「本ブログ初となる、ある試みを行おうと考えています。」と書きましたが、今回はこのブログで初めてゲストブロガーをお迎えしたいと思います。先日の公開講演会で講師を務めてくださった関野祐二先生ご本人が寄稿してくださることになりました。お忙しい中、寄稿依頼に快く応じてくださった先生に心から感謝いたします。

この投稿は、基本的に講演会で先生がお話しくださった内容に基いて書いていただきましたが、この中で取り上げられている主題は、海外の福音派キリスト者の間で近年盛んに議論されていながら、日本の福音主義キリスト教会ではまだ紹介され始めたばかりのものもあります。したがって、福音主義のフォーマットの中でこのような話題を取り上げること自体に違和感や拒否反応を覚える方々もおられるかもしれません。しかし、個々の結論に同意するしないは別として、自分と異なる意見に謙虚に耳を傾け、建設的な開かれた議論を展開できる「違いの違いが分かるキリスト者として、寛容に受け止めていただけることを願っています。

それでは、お楽しみください。

関野祐二2013年4月

お邪魔します。人気コンサートの舞台に友情出演で引っ張り出されたような不思議な感覚です。下手なパフォーマンスでブログの品位を落とさぬよう気をつけますから、どうぞおつきあいください。

今回講師を務めた5月11日の中部春期公開講演会「『福音』とは何か」は、昨年11月に行われた全国神学研究会議「福音主義神学、その行くべき方向 ――聖書信仰と福音主義神学の未来――」の延長線上にあります。私たち福音派の依って立つ福音主義神学とは何か、そのアイデンティティと方向性を探る作業をしていけば、必然的に「福音」の中身をも問われることになるからです。福音主義は「福音への献身、コミットメント」が身上。では何をもって福音(よい知らせ)と考えるのかですが、「主イエスの十字架による救い」と答えるのは正解ですし、聖書メッセージの要約かつ結論としての模範解答でもあります。ただ、あの東日本大震災を契機に、十字架のメッセージを含めた、より包括的(ホリスティックな)福音が問われるようになり、もっと全人格的、全生活的な「よい知らせ」を旧新約聖書全体から受け止めたいという機運が高まりました。逆に言えば、今までの福音理解がどちらかというと個人的、霊的、未来的な意味に偏り、この世の具体的状況における生き方の問題(たとえばキリスト者として被災地に駆けつけ何をすべきなのか)から乖離した内容に傾きがちだったとも言えましょう。

その一方で、欧米を中心に福音理解とそれに関連するホットイシューがさまざま研究され、議論されるようになってきました。福音派にとってふさわしい(安全な?)テーマかどうか、どんな内容なのかはひとまず脇において項目だけ並べれば、物語神学、開かれた神論、パウロ研究の新たな視点(NPP)、聖書の無誤性理解、創世記1~3章の解釈、関連するアダムの歴史性と原罪、被造物統治/管理などなど。残念ながら、日本の福音派ではどれもまだ議論が始まったばかりの状況で、だからこそ昨年11月の全国神学研究会議がこうした事がらを取り上げ、正面から福音主義アイデンティティを探求する場となったわけです。

実は「『福音』とは何か」という問いかけは自分自身にとっても古くて新しいテーマ。2010年3月15日の『リバイバルジャパン』に、同じタイトルで寄稿しているからです。長くなるのでその内容をここで詳しくはお伝えしませんが―――いや、せっかくですから少しだけ。Ⅰコリント15:1でパウロがコリント教会員に「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう」と改まった口調で語るその福音とは、「キリスト復活、私も復活」がポイントでした。神の贖い物語の結論として主イエスが死からよみがえり、それを信じる私たちも復活した人生をこの地上に先取りされた神の国で生き、神の物語の一端を担いつつ、新しい価値観を生きて神と人に仕え、からだの復活と救いの完成を待ち望む―――

あれから約5年が経ち、その間に社会では震災や原発事故、急速な右傾化をはじめ多くの出来事が発生、個人的にも先に挙げたような神学テーマとの格闘を経験して、「福音」理解がより包括的に(ある意味で振れ幅大きく)なってきたような気がします。以下、その一端を紹介しましょう。

まず「福音とアダムの史実性」ですが、このタイトルだけでびっくりし、つまずいてしまわぬよう願います。なぜ今「アダム」なのか、それは、「福音とは何か」を探求する上で、創世記1章~3章の解釈がとても重要であり、とどのつまり創世記1~3章をどう読むかは「アダム」という存在をどう考えるかに集約され得るからです。創世記1~3章は、神が「自然」を創造した目的と、神のかたちとして創造した人が「自然」すなわち「地」を管理する使命を与えられたことが記され、福音によって本来の姿に回復させられた人間が、神との協働により本来の意味で地を統治/管理すべきことを教えます。また創世記1~3章は、人間が罪を犯し、この世界が当初の状態からどう変わってしまったのか、最初の罪はどのように後世へと伝達されたのか、壊れてしまった「地」と堕落した人間は福音によってどう「贖われ」、新天新地へとつながるのか、その原点を示します。そして創世記1~3章は、聖書と科学の関係性や聖書の無誤性を考える際、その記述を字義通り読むべきか否か、一般の自然科学分野で今や常識とされる進化論(進化生物学)や人類の起源との関係性や整合性をどう判断するか、重要な箇所。以上三つの意味で、創世記1~3章における「アダム」の存在理解は鍵となるのです。

「福音」とは、天国行きの希望を与える意味でもたいせつですが、今この地上で生かされている私たちの生き方を決定づける「よい知らせ」でもあるはず。ならば、この世の学問的常識とも真摯に向き合わなければなりません。これまで福音派の私たちは、どちらかというと自然科学を無神論的営みとして信仰の対立軸と捉え、創世記冒頭の記事を単純に字義的解釈し、24時間×6日間で宇宙は無から創造され、特別創造された完成体としてのアダムとエバからすべての人類が発祥し、罪も遺伝的に後の全人類へと伝達されたと解釈するのが一般的でした。聖書記述をそのまま字義通り読むことが霊的であるとされ、疑問を差し挟む者には、無誤性を否定しているとか、福音的でないとの批判が浴びせられる傾向があったのです。近年、古生物学における化石記録の研究成果に加え、分子生物学によるヒトゲノム(人間のDNA)研究の急速な進歩によって、現世人類(ホモ・サピエンス)が約15万年前のアフリカ起源であると推定され、キリスト教界でも一般の自然科学に価値を見いだすグループにおいては、創世記1章~3章に記録された創造と堕落記事の意図や解釈、文学的性質、古代近東の文化的背景理解とともに、最初の人アダムの史実性問題が浮上してきました。これは、アダムとエバが歴史的にも最初の人類で後のすべての人類はアダムとエバという一組の夫婦から始まったのか、人が「神のかたち」として他の生き物と区別されたのは、いつどのようにしてなのか、原罪はどのように始まり次世代へ伝達されたのかなど、福音理解と根本教理に直接かかわる、きわめて重要なテーマなのです。鍵はやはり「アダム」の存在とその意味合いです。

ホイートン大学の旧約学教授ジョン・ウォルトンは、著書『創世記1章の失われた世界 ――古代宇宙論と起源に関する議論――』(邦訳未刊、2009年)、続編の『アダムとエバの失われた世界 ――創世記2章3章と人間の起源に関する議論――』(邦訳未刊、2015年3月)において、次のように述べています。創世記は古代文献であって、現代科学の書物ではない。古代世界の文脈に沿ってテキストを読み、著者が真に伝えたかったこと、当時の聴衆が明瞭に理解したことを知るのが真の字義的解釈であり、それは我々現代人の伝統的に理解してきたこととかけ離れている。創世記1章は古代近東の文脈から考えて宇宙的神殿落成の観点から読むのが妥当であり、物質の起源よりも機能的起源(特に人間の機能、function)の叙述として読むべきである。宇宙的神殿は人間の益のために諸機能がセットアップされ、神が被造物との関係性の中で住まわれるのだ。創世記1章から5章において、「アダム」という用語は多様な方法で使われ、人類全体を指す場合、原型的な(archetypal)人を指す場合、人類の代表者を指す場合、固有名詞の場合、特異的に用いられる場合とがある。「土地のちりで人を形造り」「あばら骨をひとりの女に造り上げ」は原型的な表現であり、物質的起源の主張ではない。新約聖書は、アダムとエバに関し、生物学的な先祖としてよりも、我々全員に当てはまる原型的な存在として関心を持っている。にもかかわらず彼らは過去現実に存在していた実在の人物であった。

不十分な紹介で恐縮ですが、ウォルトンの主張は米国の福音主義神学会でも注目を集めており、日本において「福音とは何か」を創世記のアダム理解から探求するに際し、賛成や反対いずれの立場であっても、彼の問題提起を真摯に検討する必要があると思われます。スコット・マクナイトやN.T.ライトなど、日本でも評価の高まりつつある聖書学者たちがウォルトンの研究を評価していることも付記しておきましょう。

(続く)