前回の記事では、主の祈りの中の「御国を来たらせたまえ」という部分を手がかりに、キリスト教の希望は神の国(支配)がこの地上に到来するということであって、この地上から霊的な楽園としての「天国」に逃避することではない、ということを書きました。にもかかわらず、「死んだら霊魂が天国に行く」のがキリスト教の最終的希望だという考えはいまだに根強くあります。
なぜこのような誤解が生じたのでしょうか?これにはいろいろな理由があると思われますが、一つには、西洋のキリスト教思想が、霊と物質(肉体)を対立するものと考え、前者を後者より優れたものとする、ギリシア的な霊肉二元論に影響されたということが考えられます。(二元論とは対立する二つの原理や要素の関係を通して世界をとらえていこうとする考え方のことです。)
使徒行伝の中で、パウロがアテネでギリシア人に伝道した時のことが書かれています。はじめは興味深く彼の話を聞いていたギリシア人たちは、パウロが復活のことに言及したとたんに態度を一変させます。
死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った。(使徒17章32節)
ラファエロ:「アテネでのパウロの説教」
ギリシア人が追求していたことは、彼らの霊魂が肉体という牢獄から解放されて、純粋な霊だけの存在になることでした。ですから、彼らにとって「肉体の復活」が「福音(良い知らせ)」であるなどという教えはナンセンス以外の何物でもなかったのです。このようなギリシア的な世界観に対して、聖書が教える世界観は、神によって創造された世界は本来は非常に良いものであり(創世記1章31節)、現在は人間の罪によってその良さが損なわれてしまっているけれども、やがて神によって回復されるべきものである(ローマ8章19-22節)というものです。ところが、時としてクリスチャンでも、物質や肉体を霊や精神に比べて何か劣った、汚れたものと考えてしまうことがありますが、これは聖書的な考え方ではありません。「死んだら魂が天国に行って、そこで永遠に神とともに過ごす」という通俗的天国観は、聖書から来ているのではなく、ギリシア思想の影響を受けたものと言えます。
重要性では劣るものの、もう一つの理由として、マタイ福音書における「天の御国」と言う表現についての誤解があるのではないかと思われます。(この点に関してはライトもSurprised by Hope, p. 18, でごく簡単に触れています。)
マタイは終末的な救いについて語る時、「天の御国(新共同訳では『天の国』、口語訳では『天国』)に入る」という表現を使っています(5章20節、7章21節など)。しかしこれは、一般にイメージされる「天国に行く」ということとは全く違うのです。
「天の御国Kingdom of Heaven」という表現は、四福音書の中でマタイ福音書だけに見られる独特の表現です。他の福音書では「神の国Kingdom of God」という表現が使われていますが、この二つの表現は同じものを指しています。
ユダヤ人たちは「主の名を、みだりに唱えてはならない。」(出エジプト20章7節)という十戒の一節から、「神」という言葉を口にすることを避け、代わりに神がおられる所である「天」という言葉で神ご自身を指すことがありました。このような婉曲表現はたとえばルカ福音書15章18,21節などにも見ることができます。すなわち、マタイが「天の御国」と言う時の「天」は、「神」のユダヤ的婉曲表現にすぎないのです。
つまり、マタイ福音書における「天の御国」は「神の国」すなわち「神の王としての支配」を表しているのであって、雲の上のどこか遠い所に存在している霊的な楽園を意味しているわけではありません。しかし、それがいつのまにか「天にある国」=「天国」というふうに誤解されて受け取られることが多くなったのかもしれません。マタイ福音書はヨハネと並んで使徒によって書かれた福音書ということで、古代から四福音書の中でも特に重んじられてきた福音書であり、伝統的な聖書の配列においても新約聖書の冒頭に置かれています。それによって、この福音書独特の表現である「天の御国」というイメージが人々に強力な印象を与えたことは十分にあり得ることだと思います。
いずれにしても、聖書の教える最終的な希望は、私たちが天に昇っていくという上向きの運動ではなく、神が地上に降りてこられるという下向きの運動であることを覚える必要があります。このことを最も明確に述べた箇所は、黙示録21章において、新しいエルサレムが天から地上に下ってくる場面でしょう。
わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。(黙示録21章1-4節)
私たちは終末の希望の地上的・物質的側面を軽視しないように気をつけなければなりません。さもないと、毎日地上に神の国が来ますようにと祈っていながら、いざ地上での生涯を終えると天国に昇っていく、あるいはキリストが再臨される時に天に引き上げられる(このいわゆる「携挙」も、いろいろと聖書的には問題のある概念だと思いますが、これについてはまた別の機会に書きたいと思います)ということになると、何のためにそのような祈りをしていたのか、よく分からなくなってしまいます。もし「御国を来たらせたまえ」という祈りが、ただクリスチャンとしての地上の生活をより安楽なものにするか、あるいは地上での宣教の働きに力を与えていただく(それは大切なことですが)だけのためになされているのなら、それはいずれにしても終末までの一時的な出来事に関するものになり、この祈りが本来持っている深い終末論的な意義が半減してしまうと思うのです。
クリスチャンは今日も「御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」と祈ります。このように祈る時、私たちはこの地上を脱出して別世界に逃避することを願うのではなく、神の支配がこの地上に実現することを求めます。そして、教会を通して地上に神の支配が表されていくために、私たちの日々の必要が満たされ(「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」)、神と人との間の正しい関係が築き上げられ(「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」)、こころみや悪から守られる(「我らをこころみにあわせず、悪より救いだしたまえ。」)ことを祈っていくのです。
「主の祈り」とはまさに、「時は満ちた、神の国は近づいた。」(マルコ1章15節)というイエスの宣教の言葉を信じた者たちが祈る、応答の祈りです。この祈りを日々祈ることは、イエスが始められた福音宣教のわざを継続していくことに他ならないのです。
(続く)