キリスト教の祈りの中で最も有名なものは「主の祈り」でしょう。これはイエスご自身が弟子たちに教えた祈りで、マタイの福音書6章9-13節に収められています。教派を問わず、多くのクリスチャンはこの祈りを定期的に祈っています。翻訳によっていくつかのヴァリエーションがありますが、プロテスタント教会で良く用いられているのは次の形ではないかと思います。
天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いだしたまえ。
国とちからと栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。
この祈りの心臓部とも言えるのが、太字で示した「御国を来たらせたまえ。」という部分です。ある意味で、これに続く部分「みこころの天になるごとく、・・・悪より救いだしたまえ。」は、この「御国を来たらせたまえ。」の部分の注解であると言っても良いと思います。
それでは、「御国が来る」ということはどういう意味なのでしょうか?「御国」とは、具体的な地理的領域を指すわけではありません。(「日本」や「アメリカ」という国が「来る」というのは、なかなかイメージしにくいものです。)「御国」と訳されているギリシア語basileiaは「王」を意味するbasileusの派生語で、英語ではKingdomと訳されますが、もっと正確に言うと、「王としての支配・統治」ということです。つまり、「御国が来る」とは、地上に神の支配が実現する、ということなのです。
続いてイエスは、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」と祈るように教えています。神の意思が行われるとはすなわち神の支配が実現することです。つまり「御国が来る」とは、「天において既に実現している神の支配が地上においても実現する」ということにほかなりません。
ここで注意すべきなのは、イエスが弟子たちに祈るように教えたのは、「御国(=神の国)が地上に到来するように」ということであって、「私たちが地上を去って御国に入れますように」ということではない、ということです。イエスの弟子たちが日々祈るべきことは、彼らが悪に満ちた地上から救い出されて天国に入れられることではなく、神の支配が地上に表され、この地がその御心に従って統治されることなのです。
これは、現代の多くのクリスチャンが持っているイメージとはかなり違うものではないかと思います。クリスチャン、ノンクリスチャンを問わず、多くの人々は、キリスト教が教えている希望とは、人がこの地上での生涯を終えたら、その霊魂は肉体を離れて「天国」に行き、そこで神とともに永遠に暮らすことである、と考えています。このような「死んだら魂が天国に行く」という救いの概念は、日常会話から、小説、映画、音楽など、現代の文化のありとあらゆる分野に見出すことができます。
たとえば、”I’ll Fly Away” という英語の賛美歌がありますが、1929年に書かれたこの歌は最も録音されることの多いゴスペルソングと言われています。その歌詞は次のようになっています:
1. Some glad morning when this life is o’er,
I’ll fly away;
To a home on God’s celestial shore,
I’ll fly away.Chorus:
I’ll fly away, fly away, Oh Glory
I’ll fly away;
When I die, Hallelujah, by and by,
I’ll fly away.2. When the shadows of this life have gone,
I’ll fly away;
Like a bird from prison bars has flown,
I’ll fly away.3. Oh. How glad and happy when we meet
I’ll fly away;
No more cold iron shackles on my feet
I’ll fly away.4. Just a few more weary days and then,
I’ll fly away;
To a land where joy shall never end,
I’ll fly away.
要するに、「この地上の辛い人生が終わったら、私の魂は肉体の桎梏から解き放たれて天国に向かって飛び去っていくことができる。」という、典型的な「天国の希望」を歌った歌です。
“I’ll Fly Away”(音楽としては素晴らしいのですが・・・)
しかし、これは厳密に言うと聖書の教えている最終的な希望ではありません。たとえばN・T・ライトはこのような通俗的「天国観」をいろいろな機会に批判していますが、彼は「福音(良い知らせ)」を世界創造の御業の回復と完成としてではなく、この世界を廃棄して人々の魂を非物質的な天国に集めることだと考えることは、「純粋な聖書的キリスト教というよりはむしろ、手の込んだ形の異教にずっと近い」とさえ言っています。(Simply Good News, p. 74)
実を言えば、「人は死ぬと魂は肉体を離れて天国に行く」という考えは、まったく非聖書的というわけでもありません。人が死んでから、世の終わりに肉体が復活するまでの間、どのような状態で存在しているのか(「中間状態」といいます)に関しては、聖書は明確に述べておらず、いろいろな説があります。意識のある霊魂の状態で神とともに存在すると考える人もいれば、世の終わりの肉体の復活の時まで「ソウル・スリープ」と呼ばれる無意識状態になると考える人もいます。しかし、中間状態についてどのような立場を取るにせよ、クリスチャンの最終的な希望は、天における霊魂としての存在ではなく、肉体の復活であり、新天新地において、神が人とともに住まわれることだ、という点では聖書ははっきりしています。つまり、たとえ霊魂が肉体を離れて「天国」に憩うと言う状態があったとしても、それは最終的な状態ではなく、終末に復活の肉体を受けるまでの中間的な状態に過ぎないのです。いわば、天国の魂は母国を離れて一時的に外国に亡命しているような状態であり、最終的には祖国に帰国することを待ち望んでいるのです。
(なお中間状態については、最近邦訳の出たジョージ・エルドン・ラッド著『終末論』の第3章でも論じられています。また、この本については「一キリスト者からのメッセージ」ブログで詳細なレビューがなされています。その1 その2 その3)
(続く)