C・S・ルイスの「七つの大罪」?

C・S・ルイスは20世紀の最も影響力のあったクリスチャン著述家の一人と言えるでしょう。映画にもなった児童文学の傑作「ナルニア国ものがたり」シリーズをはじめ、『キリスト教の精髄(Mere Christianity)』、『悪魔の手紙(The Screwtape Letters)』などを読まれたことのある方も多いと思います。

ルイスは英国国教会に属していましたが、教派を超えて、特に英米の福音主義キリスト教界に今日に至るまで強い影響力を持ち続けています。彼の死後40年以上も経った2005年にルイスはアメリカ福音派の雑誌『クリスチャニティ・トゥデイ』の表紙を飾りました。その号の「C. S. Lewis Superstar」と題されたカバーストーリーでは、ルイスを「福音派のロックスター的存在」と形容しています。

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ところが、福音派におけるルイスの絶大な人気とは裏腹に、彼のキリスト教信仰は標準的な福音主義プロテスタントのそれとは必ずしも一致しません。それどころか、保守的な福音派のクリスチャンなら戸惑いを隠せないような側面が彼の信仰にはあったのです。

フランク・ヴィオラは「C・S・ルイスのショッキングな見解」と題するブログ記事を書いています。その中で彼はルイスが信じていた6つの「ショッキングな」ことがらを列挙しています。

1.ルイスは煉獄の存在を信じていた。

2.ルイスは死者への祈りの有効性を信じていた。

3.ルイスは地獄に堕ちた者が死後に恵みへと移行することは可能であると信じていた。

4.ルイスは全てのクリスチャンが禁酒すべきだという考えは間違っていると信じていた。

5.ルイスはカトリックのミサは聖餐の妥当な理解であると信じていた。

6.ルイスはヨブ記は史実ではなく、聖書は誤りを含むと信じていた。

ヴィオラ自身が述べているように、これらのルイスの見解がすべてのクリスチャンにとって「ショッキング」というわけではありません。しかし、これらの項目は、多くの保守的な福音派クリスチャンにとってはかなり受け入れがたいものではないかと思います。

ヴィオラが挙げているのは以上の6項目ですが、私はこれに7番目を付け加えたいと思います。

7.ルイスは生物の進化を信じていた。

神学的には乱暴な表現であることを承知であえて言うなら、これらの7ポイントは福音派にとってのルイスの「七つの大罪Seven Deadly Sins」と言ってもよいかもしれません

ちなみに「七つの大罪」とは、カトリック教会において、悔い改めなければ永遠の死に至るとされる七つの罪のことで、伝統的に「傲慢」「嫉妬」「憤怒」「怠惰」「強欲」「暴食」「色欲」がこれに当たります。ただし、ここで述べているルイスの「七つの大罪」はあくまでもアナロジーですので、これらのカトリックの概念に対応しているわけではありません。「福音派のクリスチャンにとって、ルイスのキリスト教信仰の正統性を疑問視させる根拠となりうるような7つの信仰内容」程度に受け止めていただければ幸いです。

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さて、このようなルイスの「ショッキングな見解」について、どう考えるべきでしょうか?この記事の趣旨は上に列挙したルイスの考えが教理的に正しい「聖書的な」ものかを吟味することではありません。むしろここで提起したいのは、上で述べたような神学的見解を持っているからといって、福音派のクリスチャンはルイスのキリスト教信仰の正統性を否定すべきなのか?(通俗的な表現を使えば、ルイスは天国に行けたのか?)という問題です。言い換えれば、これら(福音派にとって)非正統的な信仰内容は、ルイスのいわば「死に至る罪」なのでしょうか?

ここで、ヴィオラのコメントに耳を傾けてみましょう。

(このような「ショッキングな見解」について記事にする理由は)これらの人々が今日の福音派の大多数が眉をひそめるような意見を持っていたからといって、キリストのからだに対して彼らの貴重な思想がおこなった貢献が覆されたり否定されたりすることはない、ということを示すことにある。

不幸なことに、多くの福音主義者は、いわゆる教理的誤りについて、キリストにある兄弟姉妹をすぐに軽視したり、罵倒さえしたりする。それらの兄弟姉妹たちが歴史的正統信条(使徒信条、ニカイア信条など)を堅持していたとしても、である。そのような軽視や罵倒は神の国に属する者たちの誰にも益することがなく、いつでも避けることができるものである。

ここでヴィオラは「歴史的正統信条」について触れていますが、これを堅持しているということは、キリストと使徒たちに起源を持ち、二千年にわたって受け継がれてきた正統的信仰の中核的部分を共有しているということです。これらの信条は、教派を問わず世界中のすべての正統的キリスト教の最大公約数的な信仰内容を要約したものであると言えます。ここでは、その一つとして「使徒信条」を取り上げたいと思います。

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。
アーメン。

さて、この信条の内容と上で述べたルイスの「七つの大罪」とを比較してみると、ルイスの「ショッキングな見解」のどれ一つとして、使徒信条の内容と矛盾するものはないと言えます。おそらくルイスは、何の留保もなく使徒信条を告白していたことでしょう。

このことは、ルイスの信じていたことがすべて正しいということではありません。ルイスと他のクリスチャンとの間には多くの解消しがたい意見の相違があり、ルイスの信じていたことの少なくともいくつかは間違っている可能性もあります。しかし、あらゆる点で完全無欠な教理の体系を持つことは誰にもできません。大切なことは、ルイスの信仰は歴史的正統キリスト教の中核的信仰告白とは何ら矛盾しないのであり、その意味で「正統的信仰」であったということです。つまり、ルイスが「教理」や「意見」のレベルでは多くの福音派クリスチャンと異なる部分を持っていたとしても、「教義」のレベルでは両者は同意することができるのです。(「教義」「教理」「意見」についてはこちらの過去記事をご覧ください。)

福音派のクリスチャンがルイスの神学的見解のすべてを受け入れる必要はありません。しかし、彼の「ショッキング」な見解を知って彼を異端視したり、彼の豊かな信仰的遺産から学ぼうとすることをやめてしまうのはたいへん不幸なことであると思います。むしろ、彼の一見違和感を覚えるような見解と向き合い、じっくりと吟味していくことによって、福音派自身の信仰を見つめなおしていく機会も与えられてくるのではないかと思います。

C・S・ルイスは「福音派」ではありません。しかし、彼はこれからも多くの福音派プロテスタントにとって「スーパースター」であり続けるでしょうし(偶像視するという意味ではなく、大きな影響を受けるという意味で)、それは福音派にとっても良いことであると思います。

All Truth Is God’s Truth

私の好きな英語の表現で“All Truth Is God’s Truth” (すべての真理は神の真理)というものがあります。キリスト者が聖書と教会の中に真理があると考えるのは当然のことですが、このことばが語っているのは、一見キリスト教とは直接関係ないと思える領域にも真理は見出すことができる、ということです。

もしキリスト教の証しする神が本当にこの宇宙を創造し、今も統べ治めている神であるならば、その神は聖書の中だけに見出される抽象概念ではなく、現実世界のあらゆる領域においても見出される生きた神であるはずです。

古来、神は二冊の本を書かれたと言われます。その二冊とは、「聖書Scripture」と「自然Nature」です。この二つと完全に対応するわけではありませんが、神学では神の啓示を「特殊啓示」と「一般啓示」に分けて考えます。前者は特定の時に限られた人々に対して示される特別な啓示であり、後者は被造物世界を通してすべての人に与えられている神の自己啓示を指します。たとえば、壮大な自然の光景を目にした時に、特に宗教的でない人でもふと神の存在を感じたり、畏怖の念に打たれたりすることがあります。被造物世界の美しさと秩序は、造り主の栄光を反映しているのです。

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詩篇の記者は宇宙を通して表される神の栄光について次のように歌っています:

もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。
この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。
話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、
その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。
(詩篇19篇1-4a節)

同様にパウロも次のように述べています:

神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。
(ローマ1章20節a)

さて、「すべての真理は神の真理」とは、このような一般啓示という形で与えられている神についての知識は、信仰者だけでなくすべての人に開かれているということを意味しています。実際、上に引用したローマ書におけるパウロの論点は、神の民であるイスラエルだけでなく、全人類が被造物世界を通して神についての知識を持っており、したがって神への反逆について弁解の余地がない、ということなのです。しかしこのことは、信仰者でない人々にも、原理的にはこの世界の真実の姿を捉えることが可能であることを前提としています。

世界についての真理が少なくとも部分的にはすべての人に開かれていることは重要です。この世には様々な分野の学問が存在し、それぞれの分野において専門の訓練を受けた人々が日夜研究に励み、知識を蓄積しています。真理の全体を捉えることのできる個人は存在しません。特に現代のように専門化が進み、各分野の知識が飛躍的に増大している時代には、すべての分野に精通することは誰にもできません。そこで、自分自身がよく知らない分野については、原則としてその分野の専門家によるコンセンサスを信頼することが必要になってきます。

ある分野の第一人者と言える専門家が、別の分野についてもいつも優れた見識を持っているとは限りません。たとえばノーベル賞を受賞したようなトップクラスの科学者が神や宗教について発言すると、それがメディアでとりあげられ、あたかも権威ある神学的言説であるかのように一般に受け取られることがあります(あくまでも通俗的な受容であって、専門家は相手にしないことが多いです)。科学の世界では誰もがその発言に一目置くような人物であっても、専門外の分野における発言を鵜呑みにしてはならないということは、少し考えれば当然のことですが、実際にはその通りになっていないことが多いようです。

一方、逆の危険性もあります。つまり、宗教の世界で尊敬されている霊的指導者が、自分の専門領域である宗教や神学以外の分野(たとえば自然科学)について的はずれな発言を行い、その分野の専門家(信仰者も含め)の信頼を失ってしまうことがあります。そのようなことは今日に始まったわけではなく、古代教会の時代からありました。たとえば、アウグスティヌスはクリスチャンが自然界の仕組みに関して軽率な発言をして、学識のある異教徒の物笑いになる危険性について述べています(『創世記逐語注解』)。

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なぜこのような事態が起こるのでしょうか?それは、「この世の学問は神を前提としておらず、罪によって歪められているため、真理を正しく認識することができない。真の神を知っている信仰者だけが、(神についてだけでなく、世界や人間についての)すべての真理を正しく認識することができる。」という考えが信仰者の間に根強くあるからではないかと思います。

確かに、創造主なる神を認めるか認めないかといった基本的な世界観の違いは、人が世界を認識する仕方にある程度の影響を与えることは考えられます。けれどもそれは、信仰者であるというだけですべての学問領域について特権的な地位を占めることができるということではありません

たとえば、あるクリスチャンが病気になって、非常に難度の高い心臓の手術をしなければならなくなったとします。その時に、敬虔なクリスチャンだけれども腕前は三流の医師と、無神論者(あるいは他宗教の信者)だけれども一流の医師のどちらかを選ばなければならなくなったとしたら、どちらに手術をしてもらうことを望むでしょうか?おそらく十人中九人は、後者を選ぶと思います。

私たちは、信仰者であろうと無かろうと、この世の様々な学問の恩恵を受け、日常的にそれを利用して生きています。日々車を運転し、携帯電話で連絡を取り合い、病気になれば病院で治療を受けます。そして私たちは、そのような科学技術が信仰者によって開発されたものであるかどうかを詮索したりはしません。それは、たとえ神を信じない人々であっても、理性を使って、神が創造された世界の仕組みを解明することができることを暗に受け入れているからです。

「すべての真理は神の真理」とは、世の中の学問の成果を何でも無批判に受け入れて良いということではありません。学問は常に進歩しており、今日の定説は将来覆されることもありえます。また、人間は自らの知的探求能力のみによって神を見出すことができるということでもありません。しかし、神は人間に理性を与え、 真理を探求する能力を与えられました。キリスト者はこの世の学問に対して敬意を持って接し、謙虚に学んでいくことが必要であると思います。それはキリスト者にとっても決して憂うべきことがらではありません。むしろ、真理がすべての人に開かれていることは、信仰を持たない人々との対話を可能にし、証しの機会を提供するだけでなく、自らの信仰を深めていくためにも重要なことなのです。

 

 

復活の福音

このところ多忙のためブログの更新が滞っていましたため、久しぶりの投稿になります。昨日の復活主日の礼拝にお招きいただいて語らせていただいたメッセージに手を加えて公開します。

復活の福音

兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。(1コリント15章1-5節)

復活の中心性

イエス・キリストの復活をお祝いするイースター(復活祭)はキリスト教の祝日の中で最も重要なもので、ある意味でクリスマスよりも大切なものです。今日の主題聖句でパウロは、コリントのクリスチャンたちに、彼が宣べ伝えている「福音(良い知らせ)」とは何かということを説明しています。その内容は、キリストが私たちの罪のために死なれたこと、葬られたこと、よみがえられたこと、そして復活後に弟子たちに現れたことです。つまり「福音」の最も大切な要素は、キリストの十字架の死と復活であることが分かります。

私たちクリスチャンは「福音」という言葉をよく使いますが、自分でもあまりよく分からないまま使ってしまっていることがあります。クリスチャンに「福音の内容を簡潔に要約してみてください」というと、「イエス・キリストはあなたの罪のために十字架にかかって死んでくださったので、そのことを信じるだけで罪がゆるされて天国に行くことができる」というふうに答えることが多います。これは間違いではありませんが、福音の全体ではありません。「福音とは何か」という問題はとても大きな問題で、今日はすべてをお話しする時間がありませんが、このイースターにどうしてもお伝えしたいことは、キリスト教の福音には「イエス・キリストの復活」という要素が必要不可欠だということです。

実際、パウロはキリストがもし復活しなかったなら、キリスト教信仰全体がむなしいものになってしまうと言っています:

もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。 すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。(1コリント15章14-15節)

さらに別の箇所でパウロはこうも言っています:

すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。(ローマ10章9節)

ここで興味深いのは、パウロは人が救われるために信じるべきことがらとして、「神が死人の中からイエスをよみがえらせた」ことを挙げていることです。逆に言えば、パウロによると、イエスの復活を信じなければ救われないということになるのです。

イエス・キリストが十字架で死なれ、三日目によみがえったことは、キリスト教の中心的な信仰内容です。誤解を恐れずに言うなら、イエス・キリストが復活したことを認めないキリスト教は本物のキリスト教ではありえないのです。そのくらい復活というのは大切なものです。

復活の事実

ですから、キリストの復活が歴史的事実であるということを信じ告白することは、クリスチャンにとって絶対的に必要なことです。しかし、およそ二千年前にユダヤに生きたナザレのイエスという人物が、十字架刑に処せられて死んだ後、三日目によみがえったなどということが、どうして信じられるのでしょうか?

まず、死人がよみがえるなどということは科学的にありえないと考える人々が当然います。けれども、この宇宙のすべてを作り、自然法則も支配しておられる神がもし存在するなら、その神が通常の自然のプロセスを覆すような介入を行うことができないと考える理由は何もありません。ですから、私たちが考えなければならない問題は、「神は死人をよみがえらせることができるか?」という原理的な問題ではなくて、「神はナザレのイエスを実際によみがえらせたのか?」という、歴史的事実の問題です。

個人的には、イエス・キリストが復活したことを裏付ける最大の証拠は、キリスト教という宗教が存在していることだと思います。

聖書によると、ガリラヤのナザレ出身(生まれはベツレヘム)のイエスという人物は、3年半の間神の国の福音を宣べ伝え、多くの弟子を作りました。しかし、イエスが捕らえられて殺された時、弟子たちは散りぢりになり、すべての希望を失ってしまいました。イエスが始められた宗教運動は、リーダーであるイエスの十字架の死によって、あっけなく消滅するかに見えました。ところが、その同じ弟子たちがわずか数十日後には大胆に立ち上がって驚くべき一大ムーブメントを開始したのです。しかも、彼らの中心的なメッセージは「イエスはよみがえり、今も生きている」ということだったのです。

このような弟子たちの劇的な変化は、どう説明したらよいのでしょうか?単に「イエスは死んでしまったけれども、弟子たちの心の中で生き続けている」ということではとうてい説明できません。イエスの復活のインパクトはあまりにも大きかったので、クリスチャンたちはユダヤ教の安息日であった土曜日ではなく、イエスがよみがえられた日曜日に礼拝のために集まるようになりました。このような変化を説明するもっとも説得力のある答えは、キリストが事実よみがえったというものです。

ある人々は、弟子たちはイエスを慕うあまり集団幻覚に襲われたと考えます。しかし、もしそうだとすると、ユダヤ人指導者など、キリスト教の反対者たちが弟子たちを黙らせるのは簡単でした。イエスの墓から死体を出してきて示せばよかったのです。しかしそのような反論はなされませんでした。

あるいは、弟子たちはこっそりイエスの死体を盗み出して、イエスがよみがえったと嘘をついたのでしょうか?マタイ福音書28章には、実際ユダヤ人たちの間でそのような噂が広まったことが記されています。しかし、そのためには復活のイエスに出会ったと称する何百人という弟子たちが口裏を合わせなければならなかったはずです。しかも、初代教会の弟子たちはその信仰のために命をもささげたことが分かっています。自分が心から信じている思想信条のために命を捨てる人はいますが、自分で嘘だとわかっていることのために苦しんだり、まして命を捨てたりする者はいません。少なくとも一人くらいは、迫害に耐えかねて秘密を暴露したに違いありませんし、そうなれば弟子たちのいわゆる「陰謀」は水の泡になったはずです。しかし、そのようなことも起こりませんでした。

またある人々は、イエスは本当には死んだのではなく、墓の冷たい空気に触れて仮死状態から生き返り、一人で抜け出してどこかに行ったと考えました。このような「イエス生存説」は今でも時々大衆向けの小説や映画などで現われます。しかし、ローマ式の壮絶な39回の鞭打ちを受け、十字架に釘付けにされ、槍で脇腹を突き刺され、布でぐるぐる巻きにされ、墓に入れられて、大人の男性が2,3人がかりでやっと動かせる巨大な岩で蓋をされた状態からイエスがたとえ息を吹き返したとしても、その状態からローマの番兵の目を逃れて自力で脱出できたとはとうてい思えません。しかも、この説では、弟子たちが復活のイエスに出会ったと証言している事実を説明できないのです。

キリスト教の起源についてもっとも説得力のある説明は、イエス・キリストは死んで三日目に確かによみがえられたということです。

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マティアス・グリューネヴァルト「キリストの復活」

復活の意味

ここまで、イエス・キリストが十字架で死なれてから確かによみがえったこと、それを信じることがクリスチャン信仰の核心であることを見てきました。けれども、キリストの復活は、私たちの信仰生活にとって、具体的にどういう意味を持っているのでしょうか?

最初に考えなければならないのは、イエスの復活はどういう性質のものだったかということです。実は聖書の中には、イエス以外にも死人が生き返った事例が記されています。旧約聖書にも、預言者エリヤ(1列王17章17節以下)やエリシャ(2列王13章21節)が死人を生き返らせた話が記されています。また、福音書でもイエスが何人もの死人を生き返らせたことが書かれています。最も有名なのは、ヨハネ福音書11章に書かれている、ラザロの例でしょう。使徒行伝でも、ペテロ(使徒9章36節以下のドルカス)やパウロ(使徒20章7節以下のユテコ)が死人を生き返らせたことが記されています。

しかし、これらの箇所に書かれているのは、イエスの復活と同じ種類のできごとではありません。これらの人々に起こったことは、「復活」というよりも「蘇生」というべきものです。彼らは通常の肉体の生命活動を再開しましたが、その後やがて普通の人間と同じように死んでいきました。

しかし、イエスの場合はもはや死ぬことのない、全く新しい形態のいのちによみがえったのです。復活のイエスは決して幽霊のような存在ではなく、物質的な肉体を備えていましたが(ルカ24章39節)、それは私たちが現在持っている肉体とは異なる性質(たとえば閉め切った部屋に現れるなど)を備えたものでした(ヨハネ20章19節)。この肉体はもはや決して死ぬことのないものであり、イエスはその新しい肉体をもったまま、弟子たちの見ている前で天に上げられて行ったのです(ルカ24章51節、使徒1章9節)。

パウロは、イエスの復活は、世の終わりに起こる死者のよみがえりの「初穂」であったと言います(1コリント15章20節)。「初穂」というのは、農作物の収穫の最初の部分を指します。初穂が現れたということは、間もなく本格的な収穫が始まることを示しています。復活のイエスは、やがて訪れる、神が支配する新しい世界のリアリティと、そこにある新しい形態の生命を先取りして示したものでした。イエスの復活は、もはや死に支配されることのない、神にある新しいいのちの「初穂」だったのです。つまり、イエスが確かに復活したと信じることは、同時に私たち自身もやがて同じような復活、もはや死に支配されることのない新しいいのちに生きる希望を持つことなのです。パウロはこのことを次のように説明しています:

すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。(ローマ6章4-5節)

私たちがイエス・キリストを信じてこの方と一つになっているなら、イエスを死者から引き上げた神は、私たちのからだをもよみがえらせてくださるのです。

復活と父なる神

ところで、新約聖書におけるイエス・キリストの復活についての記述を調べていくと、興味深い事実が分かります。日本語で「キリストが復活した」というと、なにか死んでしまったイエスが自分の力で新しい命をもってよみがえったかのような印象を受けますが、聖書ではイエスは自分の力で復活したとは書かれていないのです。原文のギリシア語では常に彼は父なる神によって死人のうちから「引き上げられた」という形で語られています。つまり、厳密に言うなら、復活はキリストご自身のわざではなく、父なる神のわざなのです。

このことはとても重要だと思います。私たちはイエス・キリストは全能の神の御子だから、死んでも自分で簡単に生き返ることができると思いがちですが、そうではありません。新約聖書によれば、十字架で死んで葬られたイエスは自分の力でよみがえることはしませんでした。イエスは十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました(マタイ27章46節、マルコ15章34節)。イエスは私たちの罪を背負い、父なる神から断絶されるという苦しみを味わってくださいました。けれどもルカ23章46節によると、イエスは「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と語って、息を引き取られました。イエスすべてを失ってもまだ自分を死から引き上げてくださる父を信じ、ご自分を父の御手にゆだねられたのです。イエスの死には、父なる神に対するイエスの完全な信頼が表れています。

そして、父なる神がイエス・キリストをよみがえらせたということは、神の力と愛を表しています。死は人類のもっとも恐ろしい敵と言っても良いでしょう。どんな金持でも、権力者でも、賢い人でも、死を免れることは誰もできません。パウロも死のことを「最後の敵」(1コリント15章26節)と呼んでいます。死の支配から助け出すことができるのは、すべての生命の源であり、世界のすべてを支配しておられる神ご自身しかありません。

けれども、復活は単なる神の全能性の証しではありません。神がイエスをよみがえらせたのは、ただご自身の力を誇示するためではありませんでした。イエスの復活に表されているのは、神の力だけでなく、神の愛でもあるのです。

イエスの復活は、イエスの十字架を抜きにして理解することはできません。神はひとり子イエスをお与えになったほどに、この世を愛されました(ヨハネ3章16節)。またイエスは律法で最も大切な戒めは、神と人を愛することであり(マタイ22章37-40節)、さらに自分の敵さえも愛しなさいと言われました(マタイ5章44節)。イエスの地上での働きを一言で要約するなら、「愛」ということができます。

しかし、そのような真実な愛に生きようとする姿勢は、この世では歓迎されません。真実な愛を貫こうとしたイエスの働きの行き着くところは十字架の死でした。ある意味で、十字架はこの世が神の愛に対して突きつけた、冷酷な「否(No)」だったのです。この世において、イエスが教え、実行されたような愛に生きる人生は無意味で、愚かで、時には危険なものと見なされます。

けれども、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。それは単に神の全能の力を表しているだけではありません。復活はイエスの示された愛の生き方、愛のメッセージに対する神の「しかり(Yes)」なのです。

死者を生かす神

聖書の中で、死者を生かす神を信じた人の話が出てきます。それはアブラハムです。

信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。 18  この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。 19  彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。(ヘブル11章17-19節)

神はアブラハムに対して、彼の子孫を大いに祝福する約束を与えられました。彼は老人になるまで子がありませんでしたので、信仰の試練を経てようやく与えられた、たった一人の跡継ぎであるイサクをたいへん愛していました。ところが神はアブラハムに、モリヤの山の上で愛する息子イサクを殺して捧げよと言われたのです。この一見不条理とも思える命令に対して、アブラハムは従順に従います。けれども、アブラハムがイサクをまさに殺そうとした時、天使が現れて彼をとどめます。創世記22章に書かれているこの有名なエピソードについて、ヘブル書の著者は、これはアブラハムが「神が死人の中から人をよみがえらせる力がある」と信じていたからだ、と解説しています。

アブラハムとイサクが歩いたモリヤへの道。イエスが歩いたゴルゴタへの道。どちらの場合も、神による救いの約束は、不条理な死によって葬り去られようとしていました。アブラハムの場合は、イサクを通して神の民が興されるという約束、イエスの場合はメシヤであるご自身を通して神の国が到来するという約束です。けれども、どちらの場合も、死者を生かす神が介入されています。アブラハムの場合はイサクの実際に生命が失われる直前に、そしてイエスの場合は、死んで葬られてから三日後に。この神にとっては、遅すぎるということはありません。

復活と神の真実

死者の復活が意味しているのは、神は真実なお方であり、必ず約束を果たされるお方だということです。何物も、死でさえも、それを妨げることはできません。そして、この方に信頼して生きる者たち、この世的に見てどれほど愚かであっても、イエスの模範に従って生きる者たちには報いがある、ということです。神は死者を生かしてくださるという復活の信仰が、復活の信仰だけが、神に全てをゆだねて生きる生き方、打算のない完全に自己犠牲的な愛の生き方を可能にしますし、またそのような愛が単なる理想主義的な幻想ではなく、実際に働くものだということを示してくれるのです。

私たちが生きているこの世界は、不条理な世界です。正直者が馬鹿を見る世の中です。素晴らしい人物が若くして病気や事故で亡くなったりすることもあります。イエス・キリストを信じるクリスチャンであっても、様々な悩みや苦しみの種は尽きません。そして、神を信じていてもいなくても、やがて私たちは死を迎えることになります。では、イエス・キリストを信じることに何の意味があるのでしょうか?それは、私たちには死を超えた希望がある、ということです。私たちはイエスを死からよみがえらせた神は全能の神であり、私たちをもいつの日か死からよみがえらせてくださることを信じることができます。そして、この神を信じて、その愛の教えに生きることは決して無意味でも愚かなことでもありません。私たちはいつの日か、神に従って生きた人生に対して、神ご自身が「しかり(Yes)」と言ってくださる声を聞くことができるのです。

なぜ復活は「福音(良い知らせ)」なのでしょうか。それは、イエス・キリストの復活にこそ、聖書の神の本当の姿、神の愛が表されているからです。