1997年に自動車事故で亡くなったRich Mullinsは非常に影響力のあるアメリカのクリスチャン・ミュージシャンでした。彼が作った「Awesome God」などの曲は今でも歌われ、日本語に訳されているものもあります。
今回は彼の歌の中でも私が特に好きな「Surely God Is with Us(確かに神は私たちと共におられる)」という曲を紹介したいと思います。この曲は彼が作ったものではありませんが、遺作となった「The Jesus Record」というアルバムに収められています。そこに収録されている、死の9日前に録音されたデモを聴く度に感動を新たにします。
この歌で興味深いのは、歌い手がナザレのイエスの地上での生涯を同時代の人間の視点から描いていることです。最初のうち、彼はガリラヤの田舎から出てきた「預言者」イエスを疑いの目で見ています。そしてイエスを神の子と信じている人々の信仰をあざ笑っています。
Who’s that man who thinks He’s a prophet?
I wonder if He’s got something up His sleeve
Where’s He from? Who is His daddy?
There’s rumors He even thinks Himself a king
Of a kingdom of paupers, simpletons and rogues
The whores all seem to love Him
And the drunks propose a toast
And they say, “Surely God is with us.
Well, surely God is with us. ”
They say, “Surely God is with us today!”あの男は誰だ?あの預言者気取りの男さ。
俺には腹に一物ある男のような気がするが。
やつはどこから来たんだ?親父はだれだい?
やつは自分のことを王様だと思ってるって噂じゃないか。
貧乏人、間抜け、ごろつきどもの国の国王陛下さ。
娼婦どもは皆やつにぞっこんみたいだし、
飲んだくれはやつのために乾杯して言うんだ。
「確かに神は俺たちと共におられる、
確かに神は俺たちと共におられる」
やつらは言うのさ。「今日、確かに神は俺たちと共におられる」ってね。
この後も、歌い手はイエスの愛の教えを非現実的だと批判したりします。しかし、歌が進むに従って、歌い手の心情に変化が起こってきます。
Tell me, who’s that man, they made Him a prisoner
They tortured Him and nailed Him to a tree
Was He so bad, who did He threaten?
Did He deserve to die between two thieves?
See the scars and touch His wounds
He’s risen flesh and bone
Now the sinners have become the saints
And the lost have all come home
And they say, “Surely God is with us
Well, surely God is with us, ”
They say, “Surely God is with us today!”教えてくれ、あの人が誰なのかを。やつらは彼を捕らえ
痛めつけて、木に釘づけしちまった。
彼はそんなに悪かったのか、一体だれを脅したと言うのか?
二人の盗人と共に殺されなければならないようなことを彼がしたと言うのか?
彼の傷を見て、その傷口に触れてみるがいい。
彼は肉体をもってよみがえった。
今や罪人は聖徒になり、
いなくなっていた者たちはみな帰ってきた。
そして彼らは言う。「確かに神は私たちと共におられる、
確かに神は私たちと共におられる」
彼らは言う、「今日、確かに神は私たちと共におられる」と。
十字架につけられて死んだイエスがよみがえった時、歌い手もまた、イエスを信じる人々に唱和して言うのです。「今日、確かに神は私たちと共におられる」と。
イエスが地上におられた当時生きていた人々は、今日のキリスト者が新約聖書で読んで知っているような内容、すなわち目の前にいる一人の人間が神の子であり、やがて死んで復活するなどということは、まったく知らなかったか、あるいはたとえ聞いても理解することはきわめて困難だったと思います。 ナザレのイエスが何者であったかということは、彼がよみがえって後、初めて本当の意味で明らかになったのです。私たちが福音書を読むときも、復活という空前絶後のできごとを体験する前の時代に生きていた人々の視点から読むとき、新しい洞察が与えられます。このことを理解するとき、なぜ福音書でイエスの弟子たちがあのようにふがいない不信仰な存在として描かれているのか、少しは理解できるのではないかと思います。
そして私たちもまた、そのような先の見えない、現在進行中の物語を生きている存在です。私たちの日々の信仰の歩みの中で、次の展開がはっきりと分かっていることはまれです。しかし、最終的にどのような結末に至るかが分かっていれば、それに至る道筋が自分たちの予想と多少ずれていたとしても、希望を失うことはありません。時には暗闇の中を手探りで歩むようなこともありますが、その中でも神が私たちを導いてくださることを信じ、やがて夜明けがくることを待ち望みつつ生きることができるのです。
聖書は私たちが将来どこに向かうかについて、そこに至るまでの正確な道筋を事細かに記しているわけではありませんが、最終的な目的地と、大まかな方向は教えてくれます。これを神学用語で「終末論」と言います。聖書の終末論(たとえば黙示録に含まれるようなもの)は、これから世界情勢がどのように推移していくかを事細かに示した未来の青写真のようなものではありません。しかし、正しい終末論(自分がどこに向かっているのか)を知ることによって、私たちは先の見えない状況の中でも、確信と希望を持って進んでいくことができます。そして、そのような確固たる希望を抱いている信仰者は、たとえ神に見放されてしまったと思えるような状況の中でも、目に見えない形で働いておられる神の御手を見ることができるのだと思います。
信仰の旅路において、終わりからものごとを見る、ということはとても大切なことです。