終わりと始まり

ここ数ヶ月、神学校で黙示録の講義をさせていただきましたが、昨日の最終講義の終わりにC・S・ルイスの「ナルニア国物語」の最終巻の結びの部分を朗読しました。

こう、その方が話すにつれて、その方は、もうライオンのようには見えなくなりました。しかし、これからはじまることになるいろいろな出来事は、とうていわたしの筆で書けないほど、偉大で美しいものでした。そこで、わたしたちは、ここでこの物語を結ぶことにいたしましょう。けれどもわたしたちは、あの人たちがみな、永久にしあわせにくらしたと、心からいえるのです。とはいえ、あの人たちにとって、ここからが、じつは、ほんとうの物語のはじまるところなのでした。この世にすごした一生も、ナルニアでむかえた冒険のいっさいも、本の表紙と扉にあたるにすぎませんでした。これからさき、あの人たちは、地上の何人も読んだことのない本の、偉大な物語の第一章をはじめるところでした。その物語は、永久につづき、その各章はいずれも、前の章よりはるかにみのり多い、りっぱなものになるのです。(『さいごの戦い』瀬田貞二訳)

よく知られているように、「ナルニア国物語」は子ども向けのファンタジー小説の体裁を取りながら、ルイスのキリスト教信仰と世界観を色濃く反映した内容になっています。私は信仰を持つ何年も前の少年時代にこのシリーズに出会い、そのキリスト教的シンボリズムにはまったく気づかないまま、熱中して何度も読みふけった記憶があります。けれども、成人して信仰を持ち、聖書を深く学ぶようになってから改めて読み返してみると、シリーズ全体を貫く神学的テーマや随所に散りばめられた聖書的シンボリズムに心を躍らされ、少年時代とはまた違った感動を持ってこの傑作を味わうことができました。子どもたちが幼いころは寝る前に英語で全巻を読み聞かせしたこともありますが、時に物語の背後に隠された聖書的メッセージに対する感動で声が詰まって読み続けるのに困難を覚えることもありました。

このシリーズは、架空の世界(パラレルワールド)であるナルニアを舞台に、主人公の子どもたちの冒険と、イエス・キリストを象徴するライオンのアスランとの交流を描いたものです。アスランによって創造されたナルニアは、最後には滅びてしまいます。子どもたちはそのナルニアを後にしてアスランの世界にやってきますが、そこは新約聖書で言う「新しい天と新しい地」(黙示録21章1節)にあたります。物語の中では、子どもたちは「現実の」イギリスにおいては鉄道事故で死んでしまうという設定になっていますが、「現実の」世界よりもさらにリアルなアスランの国で永遠に生き続ける、という結末になっています。

ここで興味深いのは、ルイスが「ここからが、じつは、ほんとうの物語のはじまるところなのでした。」と書いていることです。彼が7巻にわたって書き綴ってきた血沸き肉踊る冒険物語は、これから始まる本当の物語の素晴らしさに比べれば、本の表紙と扉にすぎないというのです。ルイスはこれから子どもたちが住むことになる永遠の世界を、いきいきとした躍動感に満ちた世界として描いているのです。

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時としてキリスト者は「天国」(この概念の曖昧さについてはN・T・ライトらによって近年しばしば指摘されていますが)や「永遠のいのち」ということを、雲の上で日がな一日ハープを弾いて過ごすような、安楽だけれどもどこかアンニュイなイメージでとらえてしまうことがあります。しかし、聖書の示す終末のビジョンはそのような不活発なものではありません。

のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。(黙示録22章3-5節)

ヨハネが黙示録において目にした終末のビジョンが「彼らは世々限りなく支配する」というダイナミックな表現で締めくくられているのは重要です。聖書が語る永遠の新天新地は、この世界以上に活動的でエキサイティングな冒険に満ちた世界なのです。黙示録は「世の終わり」という否定的でおどろおどろしいイメージで受け取られることが多いですが、実はそれはキリストの再臨によって始まる素晴らしい物語のプレビューでもあります。実際、ヨハネが証しするように命じられた内容は、「世界の終わり」ではなく、「すぐにも起るべきこと」(1章1節、22章6節)、また「これから後に起るべきこと」(4章1節)、すなわち神が支配する新しい世界の始まりだったのです。今ある世界の終わりはその準備段階に過ぎません。創世記から黙示録に至る壮大な聖書のナラティヴは、その後に始まる永遠の物語に比べれば、ほんの表紙と扉にすぎないのです。

私たちにとって終わりと見えるものは、さらに素晴らしいものの始まりにすぎません。

In my end is my beginning.
(T.S. Eliot, Four Quartets)