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前回は、「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」(以下「書翰」。全文はこちら)における、カール・バルトの神学の影響について考察しました。書翰にはバルトからの著作の引喩が多く含まれ、彼の神学からの影響を随所に見ることができます。それでは、当のバルト自身の戦争との関わりはどのようなものだったのでしょうか?
1933年にアドルフ・ヒトラーが政権を奪取すると、キリスト教会の統制をもすすめていきました。ナチスに迎合する国粋主義的・民族主義的なキリスト者たちによる「ドイツ的キリスト者信仰運動」は力をつけていき、ヒトラーの下での教会の一元化を目指していきました。彼らはユダヤ人の公職からの追放を定めた「アーリア条項」を教会にも導入することを求めていきます。
「ドイツ的キリスト者」の集会(Wikimedia Commonsより)
1933年11月13日、ベルリン体育館において、ドイツ的キリスト者の全国大会が二万の参加者を集めて開かれました。この中で急進派のラインホルト・クラウゼは「ナチスの党旗を打ち振る熱狂的な聴衆にこたえて長広舌をふるい、国家社会主義の精神を基盤とする宗教改革の成就に協力できない牧師の追放、あらゆる非ドイツ的なものを礼拝と信仰告白、なかんずく旧約聖書から削除すること、東洋的な歪曲からの福音の解放、民族と種の論理に適合するキリスト教の根底としての英雄的なイエス像の建設を提唱して、満場の熱狂的な拍手を浴びた」 といいます(森平太『服従と抵抗への道―ボンヘッファーの生涯』 [新教出版社、1964年] 、99頁)。この描写は日本における「皇紀二千六百年大会」を彷彿させます。
このような動きに反対するキリスト者たちは1934年5月バルメンにおいて「告白教会」を形成し、その神学的指針として「バルメン宣言」と後に呼ばれる宣言を行いました。バルトはこの宣言の起草者であり、彼はこの後も告白教会の理論的指導者であり続けたのです。
この宣言は六つのテーゼからなりますが、その土台となる中心的告白(第一テーゼ)では、キリストのみが唯一の主であること、第二テーゼでは、このキリストの支配領域に含まれない領域はないことが告白されます。ここでは偶像礼拝を禁じた十戒の第一戒の重要性が再確認されています。第三テーゼでは教会の使命について、第四テーゼでは教会の職位について、第五テーゼでは教会と国家との関係について、第六テーゼでは教会への委託について語られていきます 。この「バルメン宣言」が教会と国家との関係という問題に関して、書翰と対極に位置するのはいうまでもありません。バルトはその後ヒトラーへの忠誠宣誓を拒否して、1934年にボン大学教授の職を奪われます。そして翌年スイスに追放されると、国外から教会闘争を援助していくことになるのです。
1938年に書かれた「義認と法」においてもバルトは「国家そのものが、根源的・究極的にイエス・キリストに属している」と述べています。バルトはすべての国家が悪であるとは言っていませんが、国家が「デーモン化」つまり自己を絶対化することがいつでも起こりうるということに対して警鐘を鳴らしています。そしてそのような場合に教会が受けるべき栄光は、書翰が力説しているような「宗教報国」ではなく、「キリストに従うことによって受ける苦しみ」であるといいます 。「義認と法」には他にも次のような内容が見られます:
hypotassesthai(従う)ということは、決して教会とその肢々が、国家権力の意図と企てを、それが義認の宣教を護ろうとする代りに禁じようとする場合にも、自ら肯定し、自発的にそれを促進するということを、決して意味しえない。(カール・バルト「義認と法」『世界思想教養全集21 現代キリスト教の思想』井上良雄訳 [河出書房新社、1963年] 、201-202頁)
もし国家に対する誓約が、全体的誓約(トタリテーツァイト)として(すなわち、事実上或る神人という意味と力を持っている名前に対して義務を負わせるものとして)、したがって神の御言葉の自由を脅かす国家権力に対する積極的な順応を意味する場合、そしてそのことによってキリスト者にとっては、教会と教会の主に対する裏切りを意味する場合には、そのような国家に対する誓約は、(国家に対する尊敬の故にこそ)なされることは不可能である。(同上、206-207頁。強調は原文)
ここにも書翰とは180度異なる神学が見られます。このような内容を当時の日本のキリスト者は知らなかったのでしょうか?驚くべき事に、実は知っていたのです。バルトの「義認と法」は日本のキリスト者の一部で熱心に学ばれ、部分的には一般に紹介されました 。書翰の中心的作者と考えられる山本和もこの論文を深い感動を持って熟読したと戦後語っています。
日本の神学者たちはバルトのナチスへの抵抗運動、またドイツ教会闘争について、当初からかなり詳しい情報を持っていたことが分かっています。その中には、バルメン宣言についての情報、バルトのボン大学追放とバーゼルへの赴任、スイスに追われたバルトが継続した反ナチ闘争についての情報も含まれていました。これらの情報を桑田秀延、熊野義孝、福田正俊らの神学者、牧師たちが精力的に紹介していったのです 。また、エーゴン・ヘッセル宣教師は1931年に来日してバルト神学の紹介に努めていましたが、ナチスによって東アジア・ミッションから解任されて後は、「在日ドイツ告白教会の《在外牧師兼日本宣教師》」として宣教活動を続けました 。
このようにバルトや告白教会についての情報は入ってきてはいたものの、それが日本の神学界に実質的な影響を及ぼすには至りませんでした。バルト神学は、日本においては「屈折」した受容のされ方をしていくのです 。
書翰の選考委員であった熊野義孝は当時の日本の代表的な神学者であり、バルト神学を早くから日本に積極的に紹介した神学者の一人です。彼は1932年に『弁証法的神学概論』を著していますが、すでに1926年の時点でバルトに関する論文を書いています(『福音新報』掲載の「神と世界との限界―カール・バルトの神学に就いて」) 。熊野はバルトの神学をどう受けとめたのでしょうか。熊野の神学一般に対する見解は、現実的政治的情況における神学と、思想としての神学を区別するもので、神学と社会との関わりについては重要視しないというものでした。バルトに関しても同様だったのです 。
またもう一人の代表的バルト主義者松谷義範は日独の国情の違いを理由に、日本の神学者は「バルトの政治的運命と彼の神学とを(中略)区別して学ぶべきものを学び、我らが日本といふ特殊な国に置かれていることを考えつつバルトの神学を考究する」ようになったと書いています (宮田光雄『国家と宗教―ローマ書十三章解釈史=影響史の研究』 [岩波書店、2010年] 、419頁より引用)。
このような傾向に対して、すでに1934年の段階で、植村環が「神学の危機」と題する一文をもって警告を発しています。ここで植村は日本のキリスト教会において「西欧諸国の学説は盛んに輸入らせるけれども活きた宗教運動としてそれが発展して来ない」ことを嘆じ、特にバルト神学の受容について、「今現にバルトの思想の研究家を以て任ずる人々でも、果たしてバルトの如く、基督を生命として信仰の中心に置き、之に生きつゝある経験を発見し、世を覚醒せしめつゝあるものがあるであらうか。研究は研究、自己の生活は生活と言ふのでは心細い」と批判し、「今や我が国神学の危機である」と結論づけています (『福音新報』1934年3月8日号)。
1934年の時点でこうであれば、その後政治統制が強まる一方の日本におけるバルト受容については推して知るべしです。こうして原誠氏が言われるように、「日本の戦時下においてバルト神学は、沈黙の神学、すなわち一方的な絶対的な啓示による救済の神学として、いわば後退のための、沈黙のための神学となった」のです 。これは、日本においてバルト神学が圧倒的な人気を博した理由がまさにその「徹底性(Radikalität)」にあったことを考えると 、実に皮肉なことと言わざるをえません。バルト神学の徹底性は、日本においてはあくまでも神学理論上のそれに留まり、実践の領域において貫徹されることはなかったのです。
このような日本における自らの神学の受容について、バルト本人はどう思っていたのでしょうか。彼は1940年9月に、ヘッセルに宛てて書かれた手紙の中で、最近松谷から日本語への翻訳許可を求められた彼の著作リストの中には、政治問題に関する論文が一切含まれていないと言うことに苦言を呈しています 。さらに戦後になっても、『福音主義神学入門』日本語版への序(1962年)においてバルトは、北森嘉蔵『神の痛みの神学』の「日本的キリスト教」を批判しています。彼は「神学者の思考がある種の国民的特性を有する」ということを認めつつ、北森が「日本的な固有性を持ちながら、『日本的』ではなくて、福音主義的であり、聖書に根ざし、世界教会的に妥当するようなひとつの神学を目ざ」すことを期待しています 。ここで彼は勿論、ドイツにおける「ドイツ的キリスト教」の試みの失敗のことを念頭に置いて言っているのです。
このように、書翰に表れているような「バルト神学」とバルト本人の立場とは全く相容れないものであることが分かります。次回はなぜこのようなバルト神学の「変質」が起きたのか、日本における神学の問題点を考察します。
(続く)