戦争と神学者(1)

今年2015年は太平洋戦争終結70年目の節目の年にあたりますので、戦争と神学の問題について書いてみようと漠然と思っていました。そんな中で、最近ネット上で戦時中に書かれた一つの文書が相次いで取り上げられました(ここここここ)。「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」がそれです。この書翰については以前から関心がありましたので、これについて何回かに分けて書いていきたいと思います。

日本のキリスト教会の戦争責任については繰り返し議論されてきましたが、神学者の戦争責任、あるいは、戦争において日本の神学が果たした役割については、比較的注目されることが少ないのではないかと思われます。時として、神学という理論的な営みは価値中立的なものであって、政治や社会の動向とは無関係な、純粋に客観的なものであると思われることがありますが、実際には神学はその神学者が生きている時代や社会の影響を完全に逃れることはできません。このシリーズでは、戦時中の日本の神学者が、日本政府の軍国主義的政策、またそのイデオロギーに対してどのように対応していったかについて見ていくことにします。

そこで中心的に取り上げていこうと思うのが、冒頭にも述べた「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」(以下「書翰」と略記します)です。これは1944年復活祭に発行されたもので、その全文はインターネット上に公開されており、こちらで読むことができます。

なお、このシリーズでは書翰をめぐる歴史的状況を扱う関係上、日本基督教団についての記述が大きなウエイトを占めていきますが、私の目的は特定の教団を批判することにあるのではなく、ましてや戦時中の日本基督教団と現在の同教団を同一視するものでもなく、この書翰に典型的に表わされている問題を日本のキリスト教会全体の問題として共有し、その将来の歩みのために役立てていこうとするものであることを予めお断りしておきます。

書翰の歴史的背景

最初に、この書翰の成立事情について簡単に振り返ってみたいと思います。まず、書翰の差出人である日本基督教団は1941年6月24 日に、日本国内のプロテスタント34教派が合同して誕生しました。これは、宗教団体への統制を強めていった日本政府の意向を受けての設立であり、その前年の1940年10月17日に「皇紀二千六百年」を記念して行われた全国信徒大会での決議に基づくものでした。

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皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会

創立総会では、教団に属するキリスト者の第一の務めは「皇国」に忠誠を尽くすことであると宣誓され、翌年1942年1月には、初代統理富田満は伊勢神宮に参拝して、天皇家の祖神とされるアマテラスに教団の設立を報告しました 。つまり、日本基督教団の成立過程は、天皇制イデオロギーとナショナリズムの影響を色濃く反映したものであることが分かります。

次に、書簡の受取人とされるキリスト者たちが住むとされた「大東亜共栄圏」ですが、これは、東アジア・東南アジアの諸国が日本を盟主として団結し、欧米列強の植民地支配から脱し、共に助け合って発展していくという、新しい世界秩序の理想を表した言葉です。

「大東亜共栄圏」という言葉が初めて公の場で用いられたのは、1940年8月の松岡外相の談話で、日満支を中心に仏印、蘭印その他を含む自給自足圏を指す言葉として用いられたのが最初であるとされています。真珠湾攻撃の4日後にあたる1941年12月12日の閣議によって、この度の戦争を「大東亜新秩序建設を目的とする戦争」という意味で「大東亜戦争」と呼ぶことが決定されましたが、最初から明確な概念があってそのために戦争をしたわけではありませんでした 。その理想の中に、建前としては「東亜諸民族の独立」という内容が盛り込まれていくことになります。

1943年11月5-6日に東京において「大東亜会議」が開かれ、そこで「大東亜共同宣言」が調印・発表されました。この会議には中華民国、タイ、満州、フィリピン、ビルマ、インドの代表が出席しました。この宣言の中では、大東亜戦争の原因は米英の「飽くなき侵略搾取」にあるとし、大東亜を「米英の桎梏より解放すること」を戦争の目的として規定されています 。書翰の内容がこの線に沿ったものであることをこの後確認していきます。

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大東亜会議に参加した各国首脳

書翰の成立過程

太平洋戦争の戦況が次第に悪化して行く中、1943年5月17日付で、教団の全教会に宛てて懸賞募集が行われました。『教団時報』昭和18年6月15日号に掲載された募集広告は次の通りです(強調は引用者):

御稜威の下、皇軍将士の赫々たる武勲の裡に、大東亜共栄圏の確立しつつあるは、我等の最も感激又感謝に堪へざる所である。これと共に現地の人々に我日本の立場を理解せしむる事の極めて重要なるは勿論にして、我々日本基督教徒は進んでこの重大任務を荷ふべきである。就ては、我々日本基督教徒は、今度共栄圏内の基督教徒に向つて懇篤なる書翰を寄せたい。乃ち先づ我日本の国体の尊厳無比なる所以を説き、日本の大東亜共栄に関する理想抱負を明かにし、次いで日本基督教の確立、日本基督教団の成立を報ずると共に、信望愛を同じうする基督教徒として、共栄圏内の基督教徒に対して慰安、奨励提携の衷情を吐露する書翰を送らねばならぬ。茲に大方の応募を求むる次第である 。

賞金は一等1,000円、二等500円と、当時としてはかなりの高額であり、本書翰にかける教団指導部の意気込みが伝わってきます。そして「当選書翰は、冨田教団統理者の序文を附し、支那語、比島語、マライ語その他に翻訳し、成る丈速かに大東亜共栄圏内の基督教界各方面へ普及される予定である」とされました 。

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書翰の募集広告

この募集広告文からすると、この書翰の目的は東アジア諸国のキリスト者に対し、日本が遂行していた戦争に対する理解と協力を求めることであったことが分かります。そしてそのために、日本の国体(天皇を中心とした国のあり方)に基づいた「日本基督教」およびその具現化である「日本基督教団」の成立を伝え、キリスト者としての一致を求めようとするものでした。

また、亀徳正臣は『日本基督教新報』6月3日号に「現代の使徒的書翰」と題する一文を寄せていますが、それによると本書翰は「どこまでも『尊厳無比なる』国体に生まれた日本キリスト教独自の深さと高さと広さを東亜のキリスト者に伝えて、米英的虚偽なキリスト教の誤謬を訂正する宗教改革的意義」を持つものでなければならないといいます。

このような募集に対して75篇の応募があり、選考の結果入選者は次のように決定し、10月28日付で発表されました。一等該当者なし、二等(2名)鮫島盛隆(関西学院宗教主事)、山本和(日本女子神学校)、以下三等3名、選外佳作5名です。入賞者決定(1943年10月)から半年後に、教団の「公同的使徒的」書翰として1944年復活祭の日付で作成、一部は実際に送付されました。書翰の奥付によると、印刷されたのは昭和19年11月15日、発行は同20日です 。この書翰が中国、韓半島、台湾に送られたことは確実視されていますが、その他の地方に、募集広告にあるようにフィリピン語、マレー語などに訳されて送付されたかどうかは疑わしいです 。韓国においては、投獄・追放された牧師以外の、当局に順応した教職者のみに届けられましたが、翌年すぐに終戦を迎えたため、書翰が送られた事実を明らかにすることを好まない者も多く、その存在を知る者は少なかったといいます 。

次回は書翰の内容を概観してみたいと思います。

(続く)