聖書の歴史的コンテクスト

私は神学校で聖書解釈学を教えていますが、学生たちに口を酸っぱくして教えていることは、「聖書解釈はコンテクストがいのちである」ということです。

「コンテクスト」という言葉は「文脈」「前後関係」などと訳されますが、聖書のテクストはその置かれている具体的な文脈の中で解釈してはじめてその意味を正確に理解できるということです。聖書解釈におけるコンテクストには大きく分けて二種類あります。

一つは「文学的コンテクスト」と呼ばれるもので、これは聖書のテクストそれ自体の文脈、すなわち、当該箇所の前後に何が書いてあるか、ということです。(この場合の「文学的」という表現には「フィクション」というニュアンスは含まれません。)たとえば聖書の中には、「神はない」という言葉が出てきますが、だからといって聖書が神の存在を否定しているわけではありません。この言葉はその前後関係、

愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない。(詩篇14篇1節)

という文学的コンテクストに照らして、初めてその意図を十分に受け止めることができるのです。

さて、聖書のコンテクストにはもう一つ、「歴史的コンテクスト」と呼ばれるものがあります。これは「歴史的背景」と言ってもよいですが、特定の聖書のテキストが書かれた歴史的な状況を指します。 聖書は歴史的真空状態の中で書かれたものではありません。聖書記者は聖書を書く時に、読者が当時の歴史的・文化的状況をある程度知っていることを前提として書いていることが多いのです。したがって、現代の読者がその箇所を読んでも、歴史的背景を知らないとそのメッセージをとらえ損なうことがあります。逆に、その書かれた当時の歴史的・文化的状況を知ることは当該箇所の正確な理解を助けることになります。このように、解釈しようとする箇所の歴史的コンテクストを調べることは、聖書解釈の基本的なステップの一つです。

ある時私は聖書解釈学の授業で、いつものように歴史的コンテクストの重要性を教えていました。すると一人の神学生が手を挙げて、次のような質問をしたのです。

「聖書の歴史的コンテクストを調べなければならないということは、聖書のどこに書かれているのですか?」

この質問を受けて私は一瞬答に詰まってしまいました。ある聖書テクストの歴史的コンテキストは、普通は当然ながらそのテクスト自体には含まれません。また、聖書の著者とその最初の読者とは、同じ時代と文化の中に生きていることが多いので、そのような歴史的コンテクストは両者の間ですで共有されており、わざわざ言及する必要はなかったと思われます。つまり、聖書のオリジナルの読者は、聖書を正しく理解するために、今日の聖書学者のようにその歴史的コンテクストを意識的に調査する必要はあまりなかったのです。

一方で、このような質問がなされた意図も分からないことはありませんでした。聖書を信仰と実践の最終的権威と告白する福音主義的キリスト教の立場からすれば、聖書解釈という営みの具体的な方法論(この場合は歴史的コンテクストの再構成)の有効性もまた、聖書に基いて吟味されるべきだ、という考えがあったとしても理解できます。つまりこの学生には、聖書の歴史的コンテクストを調べるという作業は、聖書の外から持ち込まれた異質なものであると感じられたのかもしれません。

非常に興味深い質問だと思いましたので、この問題についてじっくりと考えてみることにしました。その中で見つけたのが次の箇所です。

1 さて、パリサイ人と、ある律法学者たちとが、エルサレムからきて、イエスのもとに集まった。 2  そして弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。 3  もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。 4  また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。 5  そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。(マルコ7章1-5節)

このエピソードでは、イエスの弟子たちが手を洗わないで食事をしているのをパリサイ人が批判しています。ここで注意したいのは、太字で示した3節と4節の部分は、福音書の著者であるマルコ自身が挿入した説明文だということです。話の筋自体はこの部分がなくても、2節から5節にスムーズにつながります。おそらくマルコが福音書を書く際に利用した資料では、そのようになっていたのでしょう。しかし、この説明部分があることによって、読者にはイエスとパリサイ人との論争が単なる衛生上の問題についてのものではなく、当時のユダヤで食前に行われていた儀式的な浄めの洗いの妥当性について行われた宗教的な性格のものだということが明らかになるのです。

もちろん、そのような説明は、当時のユダヤ社会の宗教的慣習をよく知る者には不要だったかもしれません。しかし、ユダヤの宗教文化に不案内な読者は、なぜ食前に手を洗わないことをパリサイ人が問題にしたのか、またそれに対してなぜイエスが「人間の言伝え」を守っているとパリサイ人を批判したのか(8節)理解しにくかったと思われます。そして、マルコはまさにそのような、パレスチナのユダヤ教文化をよく知らない異邦人読者を主な対象として福音書を書いていたからこそ、このような説明文を挿入したのだと思われます。

このことは、新約時代に既に、キリスト教のメッセージを異文化の人々に正確に伝えるためには、その歴史的コンテクストを説明しなければならないと初代教会の人々が意識していたことを意味しています。このような例はこの箇所だけでなく他にも見出すことができます(たとえばヨハネ4章9節など)。

しかし、聖書の歴史的背景は、このように聖書テクスト自体の中でわざわざ説明されることはむしろ稀です。上述したように、聖書はもともと書かれた当時の人々が読むことを想定して書かれていますので、当時の人々が常識的に知っている内容は書く必要がなかったからです。けれども現代の私たちが聖書を読む時には、そのような知識を共有していないため、意識的に当時の背景を調べていく必要があります。その際には、聖書以外の資料(注解書等)を活用する必要も出てきます。

保守的なクリスチャンの中には、聖書を読む時に聖書以外の参考資料を用いたり、歴史的背景を調べたりする作業を否定する人々も存在します。「聖書だけを開いて素直に読めば、その意味は自ずと明らかになる」というわけです。しかし、聖書のメッセージを正しく理解するために、必要に応じてテクスト自体に含まれない背景情報も活用するべきであるということは、聖書自体が示唆しているのです。