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今回から、いよいよ本シリーズのタイトルである「黙示録における福音」について考えてみたいと思います。
まず、黙示録の中に「福音」ということばはどのくらい出てくるのかを調べてみると、その頻度は非常に少ないと言うことが分かります。 「福音euangelion」という言葉は「良い知らせ」という意味ですが、黙示録の中でこの名詞形が使われているのは14章6節の1回のみで、「福音を宣べ伝えるeuangelizō」という動詞形は14章6節と10章7節の2回しか出てきません。つまり黙示録全体の中で、明示的に「福音」について語られているのは、10章7節と14章6節の2節しかないのです。しかも、 このどちらの箇所で語られている内容も、私たちが「福音」という言葉を聞いて抱く通常のイメージとは異なる印象を与えるものです。
まずは、10章7節から見ていきましょう:
「第七の御使が吹き鳴らすラッパの音がする時には、神がその僕、預言者たちにお告げになったとおり、神の奥義は成就される」。
ここで神が預言者たちに「お告げになった」と訳されている単語が、euangelizō(福音を宣べ伝える)という動詞です。黙示録のナラティヴの中で、7つのラッパは神の裁きを表しており、最後のラッパが鳴り響くとは、神の裁きが完成する時であるとふつう解釈されます。そのどこが「福音(良い知らせ)」なのでしょうか?大きく二つの解釈が考えられます。
第一の解釈は、神の民の敵が完全に裁かれ滅ぼされることによって、神の民が救われることが「福音」である、というものです。しかし、黙示録のテキストを注意深く読んでいくと、この解釈は不適当であることが分かります。
二番目の解釈は、神の民の証しによって、多くの人々が回心することが「福音」である、という解釈です。この解釈は、この箇所の後に続く11章で記述される教会の証しというテーマとつながっていくものであり、こちらの解釈が妥当であると思われます。
10章7節の言葉が御使によって語られた後、ヨハネは御使の手から開かれた巻物を受取り、「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない」と語られます。その預言の内容は11章1-13節に要約されています。そこでは「ふたりの証人」が1260日の間預言することが語られます(3節)が、これは世における教会の証しを表しています。そしてその証しの結果何が起こるかが13節に書かれています:
この時、大地震が起って、都の十分の一は倒れ、その地震で七千人が死に、生き残った人々は驚き恐れて、天の神に栄光を帰した。
ここでは確かに悔い改めない者たちに破壊と裁きが臨みますが、それは比較的少数(都の十分の一、7000人の死者)であり、残された大部分が「天の神をあがめる」ことが記されています。旧約聖書においては民の「十分の一」(イザヤ6章13節、アモス5章3節)また「七千人」(1列王記19章18節)は残されて救われる忠実な者たちを表す数字ですが、黙示録ではこの数だけの人々が滅ぼされるとなっています。つまり、ヨハネは旧約聖書の象徴的数字を逆用しているのです。この事についてリチャード・ボウカムは「神の国は教会が救われ国々が裁かれることによって来るだけでなく、第一義的には教会の証しの結果国々が回心することによって来る。」と述べています。
これは「裁きの書」としての黙示録のイメージを持っている人々にとっては非常に奇妙で理解しがたい内容です。そこで、この箇所の「回心」は見せかけだと考える人もいますが、そう考えるべき釈義的根拠は何もありません。16章9節では「神に栄光を帰する」ことは明らかに真の回心を指していますので、11章13節でも同様に考えられます。
実際、10章7節で述べられているように、このような終末における大規模な回心は旧約聖書で預言されていたことでした。神がアブラハムに与えられた約束は、地上のすべての民族が彼の子孫を通して祝福される、ということでした(創世記12章3節)。その後イスラエルはたしかに自民族中心主義に陥ってしまいますが、このような普遍的救済のビジョンは預言者によって繰り返し語られていたのです:
終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、 多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。(イザヤ2章2-3節)
このような、終末における国々の回心が教会の証しによって起こるというのは重要です。黙示録では世の終わりに臨む神の裁きが様々な災害の形を取って描かれます。最初のうちに行われる裁きは人類の一部分だけを滅ぼすもので、警告的な意味合いがあります。それでも悔い改めなかった人々に対して、最終的な裁きが臨みます。ここで興味深いのは、これらの裁きを体験した人々は、悔い改めることをしなかったということです(9章20-21節、16章9節、11節、21節)。
しかし、終末には悔い改める人間はいないと考えるのは間違いです。人々は裁きだけでは悔い改めません。しかし、ほふられた小羊の模範に従い、いのちをかけた教会の証しを通して人々は回心するのです。
次回は14章6節について見て行きたいと思います。
(続く)