クリスマスおめでとうございます。黙示録についてのシリーズの途中ですが、今日は少しお休みして、クリスマスの意味について考えてみたいと思います。
キリスト教においてクリスマスとは、三位一体の神(父・子・聖霊)のペルソナの一人である御子キリストが、人類を救うために人間となってこの世に来てくださった(受肉といいます)できごとを祝うものです。神である御子がどのようにへりくだって私たちのために人間となってくださったか、その謙遜と愛について語られることが多いです。
もちろん、そのようにクリスマスを御子キリストの視点から見ることは間違ってはいません。しかし、クリスマスのできごとを別の視点すなわち父なる神の視点から見ることもできます。つまり、クリスマスとは父なる神が愛する御子をこの世に送ってくださったできごとでもあるのです。
しかも、キリストはただ人々に神の存在を知らせるためではなく、人間の罪の身代わりとして十字架にかかって死なれるために来られたのです。ということは、父なる神は私たちの罪の身代わりとして犠牲にするために、愛するひとり子をこの世に送ってくださったということになります。ここに父なる神の愛が表れています。
神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。(1ヨハネ4章9-10節)
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ福音書3章16節)
けれども、父なる神の愛という側面は、クリスマスという文脈で語られることは比較的少ないのではないかと思います。
(Giovanni Battista Pittoni, “The Nativity with God the Father and the Holy Ghost”)
以前、私は教会でよく使われる祝祷「主イエス・キリストの恵みと、(父なる)神の愛と、聖霊の交わり」(2コリント13:13)の意味がよく分かりませんでした。なぜ「主イエス・キリストの」愛ではなく「父なる神の」愛なのでしょうか?私が神の愛と聞くとすぐ思い浮かべたのは十字架にかかって死なれたイエス・キリストの愛でした。それならよく分かります。それに対して「父なる神の愛」というのはあまりぴんとこなかったのです。
その意味が分かるようになったのは自分が父親になってからでした。私には3人の娘がいます。いろいろやんちゃで世話の焼ける子どもたちですが、やはり親にとって子どもはかわいいものです。でも時々子どもの将来について心配になることもあります。ちゃんと信仰を持って生きていくだろうか、心身共に健康に育ってくれるだろうか、いじめや犯罪に遭わないだろうか・・・。もし家に強盗が入ってきて娘たちを殺そうとしたら、きっと「殺すならこの私を殺せ!子どもたちだけは助けてくれ!」と叫ぶと思います。
あるいはこんなことを考えてみましょう。原子力発電所のある町で地震が起こり、原発が暴走し始めました。誰かがコントロールルームまで行ってスイッチを切らなければ大惨事になり、その町に住む何十万という人々の命を奪うことになってしまいます。ところが建物が地震で崩れ、入り口が狭まっているため、身体の小さな子どもでなければ入っていくことができないことが分かりました。入っていけば放射能を浴びて、長い間苦しみながら死ぬことが分かっています。(そういう状況が現実に起こりうるのかどうか分かりませんが、あくまでたとえとしてお考えください)。私と子どもがその場に居合わせたら、たとえ本人が行きたいと言っても、町を救うために自分の子どもを行かせることができるでしょうか?
他人のために自分の生命を捨てることが易しいとは言いませんが、他人のために自分の最愛の存在を犠牲にすることは、自分が犠牲になることよりももっと辛く難しいことかもしれません。神のために最愛のイサクを捧げようとしたアブラハム(創世記22章)のようなことは、正直とても自分にはできそうにないと思ってしまいます。ところがこれこそ、まさに父なる神がなされたことなのです。御子イエスは人間を愛し、御父を愛するがゆえにご自分の生命を犠牲にされました。そして父なる神は人間を愛するがゆえにその愛するひとり子を犠牲にしてくださったのです。クリスマスの物語の背後には、父なる神と子なる神の愛と大きな犠牲があるのです。クリスチャンはしばしば神の愛について語ります。しかし、私たちは神が「どれほど」私たちを愛しておられるか、本当に知っているのでしょうか?
イエスが実際にお生まれになったとき、そのようなことに思いをはせる人間はほとんどいませんでした。ヨセフに現れた天使ガブリエルも、生まれてくる子が民をその罪から救う方である(マタイ福音書1章21節)ことは告げますが、どのようにしてそれを成し遂げるかは語っていません。ただ一人、父なる神だけが、その誕生の本当の意味、つまりイエスが人々の罪をあがなうためにやがて十字架にかけられるということを知っていました。そして、聖霊に導かれて預言したシメオンの言葉にわずかにそのことが暗示されています。
するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。―そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。―それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。(ルカ福音書2章34-35節)
イエスの降誕物語はしばしばほのぼのとしたメルヘンチックな雰囲気の中で語られますが、父なる神はその様子をどのような思いで見ておられたのでしょうか。私には、クリスマスの喜びの中には、父なる神の涙のひとしずくが混じっていたという気がしてならないのです。
バッハのクリスマス・オラトリオはクリスマスの喜びにあふれた明るい音楽です。しかし、注意して聴いていくと、その中でさりげなくマタイ受難曲にも使われる受難のコラール「血潮したたる主の御頭」のメロディが何度か入ってくるのに気づきます。クリスマスは喜びの季節と考えられていますが、明るいクリスマス音楽の中には受難曲の調べがかすかに響いているのです。そのかすかな調べを聴き取る耳を持つ者は、キリストが来られたことと、父なる神が御子を送られたことの意味を深く考えずにはいられないのです。
(バッハのクリスマス・オラトリオ。「血潮したたる」のメロディは、この動画だと、たとえば14:40付近から聴くことができます。ところが同じメロディがキリストの勝利を歌う最終合唱[2:18:11付近から]でも盛大に歌われ、バッハがクリスマスの延長線上にカルバリの十字架、さらに復活までもはっきりと意識していたことを思わせます。)