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前回は、「黙示録における十字架」について考察しました。そこでも見たように、「十字架」ということばは黙示録にはほとんど出てきません。しかし、十字架を表す別の重要なイメージが繰り返し登場するのです。それは「小羊」のイメージです。
(ヤン・ファン・エイク 「神秘の小羊」)
「小羊」としてのキリスト
黙示録において、「小羊arnion」ということばはキリストについて28回使われています。黙示録研究の世界的な権威であるリチャード・ボウカムRichard Bauckhamの解釈によると、28 = 4 x 7であり、4は世界を象徴し、7は完全数であることから、キリストの使命は全世界の国々を贖うことであると考えられます。この「小羊」は5章で初めて登場し、22章の冒頭、ヨハネが見た幻の最後の部分まで繰り返し登場します。
まず5章で、小羊は天の御座に座る神の右手にある巻物を開くことのできる唯一の存在として登場します。この巻物には、神の歴史に対するご計画、つまり神がどのようにして地上の悪に勝利され、永遠の支配を確立されるのか、と言うことに関する奥義が記されています。それを開くということは、神から権威を受けてそのご計画を遂行するということです。
そのようなことのできる存在は、天地のどこにも見いだせなかったため、ヨハネは激しく泣いていました。しかし、彼は「ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」と聞きました(5節)。彼は「獅子」と聞いたのですが、実際に彼が「見る」と、そこにいたのは「ほふられたとみえる小羊」でした(6節)。ここには驚くべき比喩の逆転が見られます。「ほふられたとみえる」という表現は、ほふられて一度死んだけれども、よみがえったという、イエスの死と復活の両方を表しているのです。
黙示録がイエスの復活だけを強調しているわけではないことに注意しなければなりません。もし復活だけが重要であるならば、終末の幻においてイエスを小羊として描く必要は何もありません。獅子や力強い戦士などのイメージだけを用いれば良いのです。しかし、ヨハネが最後までこの小羊のイメージにこだわるのには、イエスによる十字架の贖罪に焦点を当て続けるという、神学的な理由があるのです。
さて、5章では小羊は天の御座にあって、天使たちの礼拝を受けますが、そこでは十字架上の死による贖いのわざが賛美されます(9-10節)。つまり、ここではイエスが初臨の時になしとげられた過去の救いのわざについて語られているのです。
しかし、黙示録において小羊のイメージは過去の贖罪のできごとのみに関わっている訳ではありません。6章以降では小羊は巻物の7つの封印を解いていきます。つまり、終末に向けての歴史の展開を導いているのは小羊なのです。
14章でヨハネはシオンの山に立つ小羊を見ます。これは終末における悪の勢力(13章に描かれている竜、獣、偽預言者)と戦うキリストの姿です。小羊に従う14万4千人は小羊の軍隊としての教会を表しています。小羊と悪の勢力との戦いは17章でも語られます。
彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る。(17章14節)
さらに、小羊は終末のビジョンのクライマックス、新天新地と新しいエルサレムの場面でも登場します。終末における神の民の救いの完成は「小羊の婚宴」(19章9節)として描かれます。そしてヨハネの見た幻の最後の部分でも、こう書かれています。
のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。(22章3-4節)
つまり、黙示録においてはキリストは十字架の死をもって人々を贖っただけではなく、世の終わりに至る歴史の展開を導かれ、最後の悪との戦いにおいても中心的役割を果たされ、永遠に神と共に統べ治められます。そしてこのすべてのキリストのみわざについて、ヨハネは「ほふられた小羊」というイメージを用いているのです。
このことは、キリストが「どのようにして」天の御座から統べ治め、「どのようにして」悪に勝利されるのか、ということについて重要な洞察を与えてくれます。つまり、キリストが世界を支配し、悪を裁き滅ぼされるのは、ローマやバビロンのような軍事力・物理的暴力によってではなく、カルバリの丘で表されたような自己犠牲的な愛によってなされる、ということです。
黙示録における暴力的な裁きの描写を象徴としてではなく字義通りに解釈することは、他の新約文書(特に福音書)の神観・イエス像と矛盾するばかりでなく、黙示録の中心的ビジョンである4-5章における神とキリストの描写とも矛盾します。そこではほふられた小羊であるキリストが天の王座にあって統べ治め、また礼拝を受けています。つまり、キリストは「ほふられた小羊として」世界を治め、裁かれるのですし、「ほふられた小羊として」あがめられるのです。「ほふられた小羊」つまり自己犠牲的な愛の姿はキリスト、そして神の本質的なアイデンティティであり、黙示録のすべてのイメージはそのレンズを通して解釈されなければならないのです。
(続く)