黙示録における「福音」(3)

黙示録における十字架

前回は、黙示録におけるイエス像と、他の新約文書、とりわけ福音書に描かれているイエス像との間に連続性はあるのか、という問題を提起しました。一般的に、黙示録に登場するキリスト(あるいは神)のイメージは暴力的な裁きによって特徴付けられることが多く、それは福音書に登場する愛に満ちたイエスの姿と一見相容れないように思われます。しかし、神の本質は愛であり、受肉したイエスは神の愛を体現した存在であり、さらに「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(ヘブル13章8節)のであるなら、そのような特徴は終末に再臨するイエスにも何らかの形で当てはまるはずです。

もし福音書のイエス像と黙示録のイエス像に本質的な連続性があるとすれば、私たちが黙示録を読む時、福音書のイエス、神の愛と恵みを語られたイエス、十字架にかけられたイエスというレンズを通して読んでいかなければならないことになります。ところがここで問題が生じます。黙示録では十字架について直接語られることはほとんどないのです。

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(ベラスケス 「キリストの磔刑」)

黙示録において「十字架stauros」という名詞は一度も登場しません。「十字架につけるstauroō」という動詞が現れるのも、11章8節「彼らの主も、この都で十字架につけられたのである。」の一回のみです。ではやはり黙示録はイエスの十字架を重要視していないのでしょうか?

そうではありません。ヨハネは黙示録の冒頭でイエスについて次のように述べています。

また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、 わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。(1章5-6節)

ここでは、イエスが人類への愛のゆえに(十字架で)血を流してくださり、それによって私たちを罪から解放してくださったことが述べられています。黙示録は「イエス・キリストの黙示」(1章1節)と題されているように、復活のキリストが教会に対して与えられた啓示の書です。(「黙示apokalypsis」ということばは、「覆いを取ること、啓示」という意味があります)。そして、ヨハネが本書の冒頭でキリストによる贖罪に言及しているのはとても重要です。黙示録の残りを読み進めていく時に、この基本的なキリスト理解を忘れてはならないのです。

ヨハネが黙示録において十字架について直接言及することがほとんどないのは、それが彼の読者には周知の事実だったからです。彼はまだイエスについて知らないノンクリスチャンに対して本書を書いているのではなく、すでにイエス・キリストを主として信じているクリスチャンに対して書いていることを忘れてはなりません。彼らはクリスチャンになる際に、当然のようにイエスがどのように十字架につけられたか、そのことがどういう意味を持っているかを学んでいたことでしょう。ヨハネは本書冒頭部分でそのような基本的知識を簡単に確認した後、本題に移っていくのです。その本題とは、既に十字架で贖われたクリスチャンたちが、どのようにしてキリストに忠実に従い、この世の悪と戦っていくのか、ということです。

では、黙示録においてキリストの十字架は、クリスチャンになるための単なる前提条件、信仰の歩みの単なる通過点なのでしょうか?十字架の教理はクリスチャンになるためには必要だけれども、一度信者になればもう十字架のことは忘れて、他のいろいろな奉仕に邁進していけば良いということでしょうか?もしそうだとすれば、十字架は初臨のイエスとは深く結びついているが、再臨のイエスにはもはや関係ない、ということになるかもしれません。(そしてそのような考え方は、前回考察した、福音書と黙示録の間に不連続性を見る考え方にも通じていくと思います)。

しかし決してそうではありません。黙示録の終末のビジョンにおいて、キリストの十字架は中心的な役割を果たし続けているのです。確かに「十字架」ということばは黙示録にはほとんど出てきません。しかし、十字架を表す別の重要なイメージが繰り返し登場するのです。次回はそれについて見て行きたいと思います。

(続く)