黙示録における「福音」(2)

今回は、黙示録では神またはキリストがどのように描かれているか、と言う点について考えてみます。

多くの人は、黙示録に描かれている神は新約的な愛と赦しと恵みの神ではなく、旧約的な怒りと裁きの神、というイメージを抱いています。(このような旧新約聖書の性格付けは正確なものではないと思いますが、あくまで一般にもたれているイメージとして、ということです)。

 福音書では、イエス・キリストは神の愛を体現する存在として描かれています。イエスは敵を愛せよと教え(マタイ5章44節)、右の頬を打たれたら左の頬を向けよと言われ(マタイ5:39)、剣を取る者は剣で滅びると言われました(マタイ26章52節)。弟子たちにそう教えただけでなく、自らそれを実行して十字架にかかられ、「父よ、彼らをおゆるしください。」と祈られました(ルカ23章34節)。

ところが黙示録のキリストは世の終わりに現れて不信者を容赦なく滅ぼす戦士としてイメージされます。これは福音書に描かれている愛のメシヤとしてのイエスのイメージとどのように結びつけたら良いのでしょうか?「結局黙示録に描かれている神やキリストの暴力的な裁きは、ヨハネが批判している当のバビロン/ローマがしていることと変わらないのではないか?」という批判がなされることもあります。そのような理由で、黙示録を非キリスト教的文書として拒絶する人も存在します。これはどのように考えたら良いのでしょうか?

RavArchBpChapelXt(戦士としてのキリスト;6世紀)

伝統的に本書はヨハネの福音書や手紙を書いたのと同じ、使徒ヨハネによって書かれたと考えられてきました(この他に、使徒とは別人の「長老ヨハネ」と呼ばれる人物によって書かれたという説もあります)が、この説を受け入れると、上で述べたような、神とキリストの「暴力的イメージ」をめぐる困惑はさらに深まります。なぜならヨハネは福音書でも手紙でも神の愛を強調しているからです。

愛さない者は、神を知らない。神は愛である。(1ヨハネ4章8節)

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3章16節)

これほどまでに神の愛を強調したヨハネが、なぜ黙示録ではあのような厳しい裁きのメッセージを語れるのでしょうか?

多くの人々は、福音書の愛のイエスと、黙示録の暴力的なイエスのイメージを両方受け入れています。しかしそうだとすると、イエスは初臨の時には愛と赦しを語り、人々に悔い改める機会を与えたが、最後まで悔い改めない者には、世の終わりに容赦なく裁きを下す怒りの神として再臨するということになります。しかし、これはよく考えてみると首尾一貫しないキリスト観ではないかと思われるのです。

昨年米国のテレビ番組「サタデー・ナイト・ライブ」で福音書のパロディ・ビデオが放映されました。“DJesus Uncrossed”と題されたタランティーノ監督風のビデオでは、墓からよみがえったイエスが自分を殺した人々に次々と復讐するという血なまぐさいストーリーが描かれていきます。そこに「彼は死人のうちからよみがえった・・・そして彼は決して赦しを説くことはない( “He’s risen from the dead. . . And he’s preaching anything but forgiveness.”)」 というナレーションが入ります。つまり、復活のキリストは十字架にかかる前の愛と赦しを説いたイエスとは似ても似つかぬ存在として描かれているのです。

(警告:暴力的描写が含まれています!)

当然のことながら、これは同番組史上最も冒涜的なビデオとして、多くのクリスチャンの憤激を買いました。しかしここで考えてみたいことがあります。多くのクリスチャンはこのような暴力的復讐のイメージは初臨のイエスには似つかわしくないと考えますが、再臨のイエスにはふさわしいと考えているのです。

「目には目を、歯には歯を」の原則に従い、この世の悪を力でねじ伏せる初臨のイエスのイメージが冒涜的であるなら、再臨のイエスについて同じような理解を持つのも冒涜的ではないでしょうか?「サタデー・ナイト・ライブ」のビデオは(それが制作者の意図であったかは別として)そのようなクリスチャンの持つアンビヴァレントなイエス像を浮き彫りにしていると言えるかも知れません。

一方、米国を中心に大ヒットしたレフト・ビハインド・シリーズ『グロリアス・アピアリング』という巻では、再臨のキリストが地上の敵を文字通り虐殺する様子が非常にリアルに描かれています。少し長いですが一部を引用します。

レイフォードがのぞいている双眼鏡の先では、男女の兵士や馬が立っているその場で爆発しているようだった。主のことばそのものが彼らの血を過熱させ,それが血管と皮膚を突き破っているかのようだった。「彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける。天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。」何万という歩兵が持っていた武器を落とし、自分の頭か胸をつかみ、膝をつき、身をよじりながら、目に見えない何かでばらばらに切り裂かれていった。はらわたが砂漠の床に流れ出し、そのまわりで逃げまどう者たちも殺され、血があふれ、キリストの栄光の容赦ない輝きのなかでその嵩を増していった。「天ではわたしの剣に血がしみ込んでいる。見よ。これがエドムの上に下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ。主の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。主がボツラでいけにえをほふり、エドムの地で大虐殺をされるからだ。彼らの地には血がしみ込み、その土は脂肪で肥える」反キリストの軍隊が主の虐殺のいけにえの動物になったかのようだった。(邦訳258-59ページ)

しかし、個人的にはこのようなイエス像には何か根本的に受け入れがたいものがあります。正典の最後を飾る、世の終わりについて語る黙示録に現れるイエスが暴力的な裁きの神であるとすると、結局神とイエスの本質は愛ではなく裁きということになるのでしょうか?初臨の時の愛の教えや実践は、人々を信じさせるための一時的なテクニックだったのでしょうか?決してそうではないはずです。 「神は愛である」と語ったヨハネは初臨のイエスについて次のように書いています。

神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。(ヨハネ1章18節)

わたし(イエス)を見た者は、父を見たのである。(ヨハネ14章9節)

ヨハネだけではありません。ヘブル書の著者も次のように語っています。

御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。(ヘブル1章3節)

イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。(ヘブル13章8節)

まとめると、神の本質は愛であり、人となられたイエスはご自身の存在、教え、みわざを通して愛なる神の本質を表されたと言えます。そしてそのイエスの本質はこれから後も永遠に変わることはないのです。

もしここまでの考察が正しいとすれば、次のことを自問せざるを得ません:私たちの黙示録の読み方は、果たして正しいものだったのでしょうか?はたして、福音書のイエス像と黙示録のイエス像には連続性があるのでしょうか?

(続く)