使徒たちは聖書をどう読んだか(14)

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前回は、聖書の救済史ナラティヴが教会共同体のアイデンティティを形成するということを述べました。今回はそれへの補足として、このような聖書テキストを通した共同体のアイデンティティ形成における聖霊の働きについて述べたいと思います。

プロテスタント信仰において、教会が従うべき最終的な権威は聖書のテキストを通して語られる聖霊にあるとされてきました(たとえばウエストミンスター信仰告白を参照)。しかし、聖霊が教会にあって、聖書のテキストを通して語られるということは、聖書記者の意図した意味を正確に伝達するという以上のことがあります。

私たちが言語を使う時、ただ単に情報を伝達するだけではなく、言葉を発することによっていろいろなことを行っています。そのように「何かを言うことによって何かを行うこと」を「言語行為speech act」と言います。例えば強盗が銀行員にピストルを突きつけて「手を上げろ」と言う時(発話行為locutionary actと呼ばれます)、強盗は手を上げるようにと命令しており(発話内行為illocutionary act)、その発話行為によって相手を脅している(発話媒介行為perlocutionary act)ということができます。

さて、聖書のテキストを通して聖霊が語られるという事実も、このような言語行為として捉えることができます。聖霊が聖書を通して私たちに語りかけるとき、それは私たちに神に関する正しい情報を伝達するというだけでなく、その語りを通して私たちに様々な働きかけがなされます。例えば次の聖書箇所を考えてみましょう。

しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに、いつもとどまっていなさい。あなたは、それをだれから学んだか知っており、また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。(2テモテ3章14-17節)

この箇所は聖書の霊感の議論で必ずと言って良いほど引用される箇所ですが、福音派の釈義においては、聖書記者が聖霊の導きを受けて誤りのない神のメッセージを書き記した、という意味で解釈されることが多いようです。しかし、パウロはこの箇所で旧約聖書の原典がいかに生み出されたかということについて語っているのではありません。そもそも彼がここで念頭に置いている「聖書」は旧約聖書のヘブル語原典ではなく、そのギリシア語訳(七十人訳聖書)であると思われます。

しかしさらに重要なのは、パウロがこの文脈で語っているポイントは、霊感を受けた(原文を直訳すると「神の霊・息を吹き込まれた」)聖書がいかに存在するようになったかという成立事情ではなく、そのような聖書がいかにして教会の働き人を訓練していくことができるか、という現在の機能にあります。つまり、ここでパウロは、聖書は聖霊によるいのちに満ちているので、それを読む人々を変革し、教会という共同体を建て上げていくことができる、と言っているのです(ここでパウロは創世記2章7節で、アダムに神の息が吹き込まれ、彼が生きるものとなったと言う記述を念頭に置いているのかもしれません)。

聖霊が聖書のテキストを通して行う言語行為の結果、何が起こるのでしょうか。スタンリー・グレンツStanley J. Grenzとジョン・フランケJohn R. Frankeは、聖書テキストを通した聖霊の発話媒介行為(発話を行うことによって達成されること)は、神がテキストによって意図している終末論的世界を創り出すことであると言います。ちょうど神がはじめにことばを発することによって世界を創造されたように、現在も神は聖書を通して語る聖霊によって、神の「ことば」なるキリストを中心とした世界を創造しておられるというのです。これは前回扱った、ナラティヴによる世界の創出ということとつながってきます。聖霊が聖書の救済史ナラティヴを通して語る時、そこにキリストを中心とする新しい世界が生まれ、キリストをかしらとする神の民としての教会が生まれていきます。

私たちが教会の一員として聖書を読むということは、聖書のテキストを通して語りかける御霊に聴くことであり、それは単に正しい神学的知識を取得するということだけでなく、御霊によって人格が作り変えられ、キリストを中心とする終末論的な世界に引き入れられていくということなのです。

思わぬ長さになってしまったこのシリーズも、今回でとりあえず最終回としたいと思います。かつてリチャード・ヘイズはパウロの解釈学を形容するのに「自由freedom」という言葉を使いました。パウロは旧約テクストの「オリジナルな意味」に縛られることなく、御霊による自由の中で聖書を解釈したというのです。これはもちろん何の制約も受けない恣意的な解釈ということではなく、キリストにおける神のわざによって聖書に与えられた新しい統一的ナラティヴに照らして聖書を読むことができるようになったということです。そしてそのような解釈はまた、聖書を通して語られる聖霊の声の微妙なニュアンスに、教会共同体として耳を傾けることによってなされていきました。新約聖書はそのようなダイナミックな聖書との関わりを証ししています。21世紀に生きる私たちも、使徒たちのこのような柔軟で自由な聖書観に学ぶべきではないでしょうか。