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前回は教会共同体というコンテクストで聖書を読むことによって、個人による聖書解釈の限界を補っていくことができるということを述べました。しかし、教会で聖書を読むことはもっと積極的な意義もあります。それは私たちが何者であり、どのように生きるべきかについての指針を与えてくれるということです。つまり、私たちは教会共同体において聖書が正しく読めると同時に、聖書は教会にアイデンティティを与え、それぞれの時代と文化において神の民を形成していくという循環的な関係があるのです。
聖書を救済史ナラティヴの枠組みを通して読むことの重要性は既に指摘しましたが、ナラティヴと私たちのアイデンティティとは密接な関係があります。私たちがアイデンティティ(自分が何者であるのかの理解)を持つためには、私たちがこれまでたどってきた人生の記憶というものが重要な役割を果たします。記憶を喪失した人にはアイデンティティがありません。私たちにアイデンティティを与えるのは、自分の人生の物語(ナラティヴ)なのです。
同様に、共同体のアイデンティティも、その構成員が共有するナラティヴによって形成されます。部族の長老が物語る昔話や国家における建国神話などはそのような機能を持っているといえるでしょう。このようなナラティヴは単なる過去の記録ではなく、そのナラティヴを共有する人々が生きる象徴世界を創り出します。共同体のメンバーは自分たちのルーツに関するナラティヴを繰り返し聞き、それを自分の物語にすることによって、そのナラティヴが創り出す象徴世界の住人となり、共同体の成員としてのアイデンティティを形成していくのです。
初代教会のクリスチャンたちは、自分たちが旧約聖書における神の民イスラエルの正当な後継者であると考えていました。使徒たちは聖書を単なる神学の資料集や過去の事件の記録として扱ったのではありません。そうではなく、彼らは旧約聖書を自分たちのルーツを物語るナラティヴとして読んだのです。さらに、旧約聖書のイスラエルの物語に、イエス・キリストという新しい章が付け加えられた時、新しく補完されたナラティヴの全体は、新しく拡張された神の民のアイデンティティを提供するようになりました。
アイデンティティの問題は異邦人クリスチャンにとって特に切実でした。ユダヤ教とまったく関係のない過去を歩んできた異邦人たちは、どのようにして自分たちがイスラエルの神の民であると理解できたのでしょうか?それは、神の民のナラティヴに、イエス・キリストという決定的な要素が加わったことによって可能になったのです。キリストを主と告白し、キリストとつながることによって、異邦人もキリストを中心として形成される終末的な神の民の中に組み入れられることができます。そしてこのキリストはイスラエルの物語のクライマックス(アブラハムへの約束を成就する存在)として来られたので、異邦人もまた、イスラエルの過去(アブラハム)と未来(相続の約束)を共有する者とされたのです。
あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。(ガラテヤ3章26-29節)
つまり、新約時代のクリスチャンたちが旧約聖書をイエス・キリストのレンズを通して読んだ時、それは単に正しい神学的な情報を学んだと言うことだけではなく、旧約聖書のナラティヴが創出する象徴世界に生きる共同体、すなわち終わりの時代における「まことのイスラエル」になった、ということなのです。
それでは、現代の私たちはどのように聖書を読んでいくべきでしょうか。使徒たちと同様に、私たちがとるべき正しい聖書の読み方は、聖書の救済史的ナラティヴが創り出す象徴世界の中に生きる共同体として読んでいくことです。
私たち一人ひとりもそれぞれのアイデンティティを形成する個人史のナラティヴを持っています。しかし私たちがキリストと出会い、キリストを主と告白し、同じ信仰を共有する人々の共同体に組み入れられる時、私たち一人ひとりのナラティヴも、救済史における神の民のナラティヴに組み入れられていきます。言い換えれば私たちは聖霊が聖書テキストを通してキリストにあって創り出す新しい象徴世界の中に入れられるのです。
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(2コリント5章17節)
この節の前半のギリシア語は、「だれでもキリストにあるならば、新しい創造がある」と訳すほうが良いように思います。パウロはここで、キリストにある個々の人間が新しい被造物となる、と言っているのではなく、キリストにあって世界全体が新しくされている、と言っているのです。
そしてこのナラティヴは、過去の出来事を通して私たちの起源を説明するだけではなく、私たちが向かって進むべき終末のビジョンをも提供するものです。ですから、私たちが現代において聖書に従って生きるとは、イスラエルからイエス、そして初代教会に至る救済の物語にルーツを置きつつ、神が形作ろうと望まれる終末的共同体のビジョンを現在において体現していくことにほかならないのです。
(続く)