使徒たちは聖書をどう読んだか(8)

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前回の結論は、新約記者たちの聖書解釈法には、旧約記者の意図した意味を超える「より完全な意味」を読み取る側面があった、というものでした。

先に進む前に、二つほど確認しておきたいことがあります。

まず、私は歴史的・文法的方法の有効性を否定しているのではありません。私自身今でもそれを用いて釈義していますし、自分の学生にも教えています。ただ、このシリーズで訴えたいのは、歴史的・文法的釈義は聖書釈義の唯一の妥当な方法ではない、ということです。

また、私は新約聖書における旧約引用のすべてが引用元の意図された意味を超えてなされていると言っているわけではありません。むしろ新約聖書における旧約引用は、引用元の文脈における意図された意味を充分にくみ取ってなされている場合が多いです。にもかかわらず、歴史的・文法的方法ではとらえきれない事例もあり、そのような「逸脱」的な事例を歴史的・文法的方法であくまでも説明しようとするアプローチに無理があるのではないか、と主張しているのです。

つまり、私がこのシリーズで目指しているのは、歴史的・文法的方法そのものの否定ではなく、それへの過度の依存を戒め、歴史的・文法的方法を包含しつつも、より自由で豊かな聖書の読み方の可能性を探ることであり、新約聖書はまさにそのような聖書解釈のモデルを提供しているのではないかと考えています。

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さて、以上見てきたように、新約記者たちの聖書解釈法は、現代福音主義の標準的釈義方法である、歴史的・文法的方法の枠に収まるものではないとすると、現代の私たちはどのように聖書を読むべきでしょうか?基本的には3つのアプローチが考えられます:

  1. 一見どのように奇妙に見えようと、使徒たちはやはり現代の歴史的・文法的方法に相当する解釈法を用いていたことを示そうとするもの。
  2. 使徒たちの聖書解釈は歴史的・文法的方法に縛られていなかったことを認めるが、そのような解釈は霊感を受けた聖書記者にのみ許された特権であって、現代の私たちは彼らの方法に倣うことは許されないとするもの。
  3. 使徒たちの聖書解釈は歴史的・文法的方法に縛られていなかったことを認め、なおかつ現代の私たちも彼らの解釈学的態度に倣うことができる、つまり新約聖書は解釈学的方法論においても規範的である、とするもの。

従来の福音派の聖書学では、1.および2.のアプローチが多かったように思います。どちらの場合も、福音主義釈義の規範的方法論としての歴史的・文法的方法の地位は保証されることになります。しかし、これまで見てきたように、1.のアプローチには無理があります。

2.のアプローチはどうでしょうか。福音派の聖書学者の中には、使徒たちが歴史的・文法的釈義を超えた解釈法を用いていることを認めながらも、そのような方法は霊感を受けた聖書記者たちにのみ許された特権であって、今日の私たちがそのような方法を模倣することは許されないと論じる人々がいます。 しかし、このような議論は「使徒たちの解釈法が本来は正しい釈義でないにもかかわらず、霊感を受けた使徒であるが故に許された」という含みがあるため、受け入れられません。使徒たちが霊感を受けていたのなら、なおさら正しい釈義方法を用いていたと考えるべきではないでしょうか。この問題に霊感が関わってくるのは、旧約テキストの「より完全な意味」を使徒たちは霊感によって正確に把握したという点においてであって、使徒たちの「誤った」解釈法が聖霊によってお墨付きを得たということではないのです。

私は現代福音主義の釈義は3.の可能性も真剣に考察すべきではないかと思います。つまり、新約聖書に記録されている使徒たちの解釈法は、その釈義の結果のみならず、方法論としても私たちの規範となり得るのではないでしょうか。

もちろん、これは現代の私たちの解釈が使徒たちと同レベルの正確さを持っているということではありません。霊感を受けていない私たちの解釈は使徒たちのそれとは違い、誤りを犯す可能性は常にあります。しかし、一般的原則としては使徒たちの解釈法に倣うことができるし、またそうすべきではないかと思うのです。聖書自体に見られる釈義の方法が現代福音主義の標準的な釈義の方法と異なるとしたら、私たちが自らの方法論の有効性を(少なくとも部分的には)疑い、使徒たちの釈義方法から学ぶことによって、自らの解釈学を修正していくことこそ、本来の福音主義(聖書信仰)の精神に沿ったものではないでしょうか。

ここで誤解を避けるために付け加えますと、私は使徒たちの具体的釈義方法(ユダヤ的解釈法など)を杓子定規に模倣すべきだと言っているのではありません。使徒たちが採用したユダヤ的解釈法は彼らが生きた歴史的文化的コンテクストに特有の要素を多く含んでおり、彼らと異なる歴史的文化的コンテクストに生きる私たちが、彼らの解釈法を形式だけ真似たとしても、あまり意味はないと思います。むしろ私たちが学ぶべきなのは、時には聖書記者の意図した意味を超えて語りかける神のことばに耳を傾けようとする使徒たちの解釈学的態度なのです。

次回は、このように釈義の方法論を拡張することから得られる利点について考えたいと思います。

(続く)