前回の投稿で、福音派の標準的な聖書解釈法である「歴史的・文法的方法」について概観しました。歴史的・文法的方法の基本的な前提は、「聖書のテキストには、聖書記者が意図した唯一の意味が内在している」というものでした。それをできるだけ正確に取り出すこと(釈義exegesis)が、聖書解釈の目的であったわけです。
歴史的・文法的方法では、聖書が書かれた当時に「意味したこと」と、聖書が現代の私たちに「意味すること」を区別することが重視されます。聖書が意味したことを明らかにするのが釈義の務めであるなら、聖書が現代の教会に対して意味することを考える作業は「適用」と呼ばれます。
歴史的・文法的方法によると、聖書が「意味したこと」は聖書記者の意図した意味と同一であり、従って一つしかありません。一方、聖書が「意味すること」は、時代や文化によって様々であり、一つとは限りません。しかし、聖書が「意味すること」はそれが「意味した」唯一の内容から導かれるべきであり、後者に依存するものでなければならないとされます。つまり、聖書記者が元々意図した意味を離れて勝手に適用を考えてはならない、ということになります。
さて、私は神学校で歴史的・文法的方法について学び、また自分でも教えてきましたので、この方法の有益性については十分に承知しています。にもかかわらず、私にはずっとひとつの疑問がつきまとっていました。それはこういうことです:
歴史的・文法的方法は、果たして「聖書的な」唯一の解釈方法なのだろうか?
これは歴史的・文法的方法を当たり前のように受け入れてきた福音派のクリスチャンにとってはショッキングな表現かもしれませんので、次のように言い換えてみます:
聖書記者が他の聖書箇所を解釈する時、彼らはそれを歴史的・文法的方法に則って行ったのだろうか?
このシリーズではこれから、使徒時代のクリスチャンたちの聖書解釈法について、特に新約聖書における旧約聖書の引用を手がかりに考えていきたいと思います。果たして、使徒たちは歴史的・文法的方法(もちろん当時はそのような呼び方はしなかったでしょうが)に従って旧約聖書を読んでいたのでしょうか?
もし歴史的・文法的方法が「聖書的な」聖書解釈法であるなら、当然聖書自体の中でもそのような解釈法が用いられているはずです。逆に、もしそうでないなら、現代の私たちは自らの聖書解釈法を見直す必要が出てくるかもしれません。
聖書自体に見られる釈義の方法が現代福音主義の標準的な釈義の方法と異なるとしたら、私たちが自らの方法論の有効性を(少なくとも部分的には)疑い、使徒たちの釈義方法から学ぶことによって、自らの解釈学を修正していくことこそ、本来の福音主義(聖書信仰)の精神に沿ったものであると思います。
私たちが使徒たちの聖書解釈法から学ぶべき理由はいくつかあります。一つは、私たちの釈義の模範を聖書自体に求めるのは極めて自然な発想だということです。福音主義が聖書は全ての信仰と実践の規範であると主張する時、その「実践」には当然聖書釈義という営みも含まれなければなりません。もし使徒たちの聖書解釈法が現代福音主義の聖書解釈法と異なる部分があるとすれば、前者を後者に合わせるのではなく、その逆を行わなければならないのではないでしょうか。
また、使徒的聖書解釈の重要性は歴史的・文法的方法そのものからも導き出せます。歴史的・文法的方法の主要な前提は、釈義は聖書が元々生み出された歴史的コンテクストを重視しなければならないということでした。その論理を個別のテクストだけでなく、聖書釈義の方法論自体にも適用するならば、もっと使徒時代の解釈学的コンテクストにも注意を向けていく必要が出てくるはずです。
福音主義の聖書解釈学では、しばしば「解釈学的らせん」ということが言われます。私たちは聖書を解釈する時、いかなる世界観(先入観)もなしに客観的に読むことはできません。しかし、私たちの世界観は聖書自体によって聖書的な世界観へと次第に修正され、修正された世界観を持って聖書を読むと聖書がさらに正確に理解でき、それはさらなる世界観の修正へと導いて行きます。このプロセスを繰り返していくうちに、私たちの聖書理解はらせん運動を描いて真理に近づいていくというのです。
このような「解釈学的らせん」を我々の持っている聖書観や釈義の方法論にも適用していく必要があります。私たちは自分の釈義的方法論が最も優れたものであるという先入観を一度相対化し、聖書自体の解釈法に虚心に心を向けるべきです。同時に、私たちが使徒たちの聖書観や釈義を考えるとき、無意識に現代福音主義の聖書観や釈義の方法論を読み込んでいないか、今一度反省してみる必要があるのではないでしょうか。
(続く)