使徒たちは聖書をどう読んだか(2)

前回の投稿で、「歴史的・文法的方法」という聖書解釈法について書きました。これは読んで字のごとく、聖書の各文書が書かれた歴史的背景と、原語(ギリシア語・ヘブル語・アラム語)テキストの文法的分析とを考慮して、聖書記者がオリジナルの読者に伝えようと意図したメッセージを読み取ろうとする方法ということです。

聖書はある日突然天から降ってきた書物ではありません。何千年にもわたる歴史の中で、さまざまな時代や場所に生きた何十人もの人々が書き記した書物のコレクションです。もちろん、福音主義的クリスチャンは、聖書の究極的な著者は神ご自身であると信じているわけですが、一つ一つの聖書の書巻は特定の歴史的状況の中で、実在の人間である聖書記者によって、ある特定の読者層に向けて書かれたものです。そういう意味で、聖書は「神のことば」であると同時に「人のことば」でもあるのです。クリスチャンは時として聖書の神的側面を強調するあまり、その人間的側面(つまり、聖書の各巻が具体的な歴史的状況の中で生み出された文書であること)を忘れてしまうことがありますが、それでは偏った読み方になってしまいます。

歴史的・文法的方法は、聖書の人間的側面に注意を払います(これは必ずしも神的側面を無視するということではありません)。それは簡単に言ってしまえば、聖書が書かれた当時の具体的な歴史的状況の中で、聖書記者と読者の間に生じたコミュニケーションを再現しようとする試みです。つまりそれは、私たちの目の前にある聖書のテキストには、著者が当時の読者に伝えようと「意図した意味」が何らかの形で内在していると考え、それをできるだけ正確に取り出そうとする営みなのです。歴史的背景や文法の分析はそのための手段です。

このことを分かりやすく表現すると、聖書記者が伝えたいメッセージを「冷凍」して、聖書のテキストという「箱」の中に入れ、その箱を読者に送り届けるイメージで捉えることができます。読者は箱を開けてその中に入っているメッセージを「解凍」することによって、著者が伝えようと意図した意味内容を受け取ることができるというわけです。

歴史的文法的方法

このイメージで重要なのは、いったんテキストに箱詰めされたメッセージは、そのまま箱の中に固定化された形でとどまり続けるということです。それはすぐに著者と同時代の読者によって解凍されるかもしれませんし、何千年も後になって、まったく異なる文化に生きる人間によって解凍されるかもしれません。しかし、適切な方法を用いれば、どんな時代に生きる読者であっても、著者が意図したメッセージを正確に再現することが(少なくとも理論的には)できるはずだというのが歴史的・文法的方法の考え方です。

歴史的・文法的方法の目的は、聖書テキストの中に存在しているはずの「著者によって意図された唯一の意味」を、歴史的背景と文法の分析を使って正確に取り出すことです。このように、「聖書の中に内在する意味を正確に取り出す」作業を「釈義exegesis」と言います。この反対に、本来聖書テキストの中に存在しない「意味」をテキストに「読み込む」行為(これはeisegesisと呼ばれます。exはギリシア語で「外に」、eisは「中に」という意味です)は、正しい聖書解釈法ではないとみなされます。

例えば、「黙示録9章3節以下に登場する悪魔的な『いなご』は、世の終わりの最終戦争で用いられる攻撃用ヘリコプターのことである」、という解釈があったとすると、それは黙示録のテキストの正確な「釈義exegesis」ではなく、主観的な「読み込みeisegesis」ということになります。なぜなら、ヨハネが黙示録を書いた紀元1世紀末にはヘリコプターなるものは存在しませんでしたので、そのような「意味」は、著者のヨハネにも、同時代の読者にもまったく理解不能なものですから、ヨハネが読者に伝えようと「意図した意味」であるはずがないからです。

さて、歴史的・文法的方法は、福音主義的聖書学の標準的な釈義の方法論として広く用いられ、国内外の福音派の神学校でも教えられていますが、それは理由のないことではありません。歴史的・文法的方法の利点は、聖書記者と当時の読者との間に起こったコミュニケーションを客観的に再構成しようとすることによって、解釈者の主観的な読み込みの危険性を最小限に抑えることができる、という点にあります。

言い換えれば、歴史的・文法的方法は(少なくともその理想において)客観的・科学的・合理的な聖書解釈法なのです。理論的には、適切な手順を踏んで釈義を進めていけば、誰でも著者が意図した唯一の意味に到達できる、というのが歴史的・文法的方法の考え方です。

私は歴史的・文法的方法聖書解釈の有効性を大いに認めますし、実際に神学校でも教えています。にもかかわらず、それだけが有効な聖書解釈法ではないのではないか、という疑問を持っています。なぜそう思うのか、ということについて、次回は書きたいと思います。

(続く)