鏡を通して見る

このブログのタイトル「鏡を通して (Through a Glass)」は新約聖書コリント人への第一の手紙13章12節から取っています。

「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。」(口語訳)

For now we see through a glass, darkly; but then face to face: now I know in part; but then shall I know even as also I am known.(KJV)

ここでパウロは終末(世の終わり)について語っています。「その時」というのはキリストの再臨の時であり、神の国の完全な到来の時です。その時には教会は神ご自身とキリストを直接知ることになるとパウロはいいます(黙示録22:3-4参照)。

しかし、このことは逆に言えば、「その時」が来るまでは、私たちは神を直接かつ完全に知ることはできないということです。私たちの知識は間接的かつ不完全なものです。この地上に生きている限り、神を完全に知ることは不可能なのです。

そのことをパウロは、「鏡を通して(鏡に映して)」見る、と表現しています。コリントは鏡の生産で有名でした。当時の鏡は金属の表面を磨いたもので、そこに映る像はゆがんでいたりぼんやりとしたものでしかありませんでした。もちろん、当時も上質の鏡は存在したようですが、パウロがここで述べているのは、鏡に映る像は、本物の一部しかとらえていないものだ、ということです。現代で言うなら、ある人を写真でしか知らない状態と、本人と顔を合わせて会った時の違いのようなものと言えば分かりやすいでしょう。

神を間接的に知る手段について、1コリント13章の文脈では、パウロはコリントのクリスチャンたちが重視していた様々な霊的賜物(預言、異言、霊的「知識」)について語っています。しかし、このことは「聖書解釈」ということについても当てはまると思います。

私は聖書は権威ある神のことばであると信じる者であり、その聖書を正しく解釈する道を追求しています。しかし、この箇所は、聖書のすべてを完全に理解し尽くすことは、この地上では不可能であることを示唆しているように思います。少しでもキリスト教に馴染みのある方なら、聖書の事実上あらゆる箇所について、何通りもの解釈が存在することを知っていることでしょう。聖書学を学べば学ぶほど、そのことを痛感させられています。

だからといって、聖書の正しい理解を追求する営みが無益であるということではありません。注意深く聖書を読んでいくことによって、多様な解釈のうちどれが相対的に妥当なものであるのかが分かってきます。聖書を学ぶということは、たゆまぬ努力によって、真理に限りなく肉薄していく試みと言ってよいでしょう。私たちが到達すべき真理は確かにあります。パウロはやがて顔と顔を合わせて見る日が来る、と言っています。私たちはその日を切望しつつ、日々励んでいくのです。

しかし、パウロのこの言葉は、私たちが自分の解釈は常に不完全・部分的であり、誤っている可能性があることを自覚するように教えています。神のことばは誤りがない真理であったとしても、神のことばに対する「私の解釈」はそうではありません。

ここから言えることは、私たちが聖書を学ぶ時、自分の解釈だけが真理であると独断的に主張してはならないということです。私たちは常によりよい解釈を求めて努力し続け、また同じく聖書を読んでいる他の人々の意見にも耳を傾けていかなければなりません。このような態度を「解釈学的謙遜(hermeneutical humility)」と呼びたいと思いますが、これは聖書を読む者がまず身につけるべき重要な徳目であると思います。

このブログも、そのように聖書の世界を「鏡を通して」見る試みの一つです。私たちにできることは、鏡に映る像が少しでも正確なものになるよう、その表面を丹念に磨き上げていくことです。